【パワースポット】住吉大社「五大力石」のご利益で願いが叶う!?

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【パワースポット】住吉大社「五大力石」のご利益で願いが叶う!?

住吉大社には、願いが叶うとして人気を集めている「五所御前」というパワースポットがあります。

ただし、五所御前に行っただけではまだご利益は授かれません。

五所御前にある、「五大力石」を拾ってお守りにすると効果があると言われています。

こちらのページでは、五大力石のご利益やご利益を得るための方法、拾い方のヒント、さらに、五所御前と五大力石の歴史や由来について、ご紹介します!

住吉大社「五大力石」とは?~意味・ご利益~

五大力石は、第一本宮の南側(本宮向かって右側)の「五所御前」と呼ばれる場所にあります。

五大力石とは、「五」「大」「力」と書かれた小石のことです。

五所御前の石造の玉垣内には玉砂利が敷かれており、その中から「五」「大」「力」の文字が書かれた石を拾ってお守りにします。

「五大力」とは、体力・智力・財力・福力・寿力(命)という意味で、住吉大神の果てしないご神徳・ご守護を象徴しているとされています。

五大力石をお守りにすることで、これら5つの力を授かり、心願成就(願いが叶う)のご利益(ご神徳)があると言われています。

五大力石をお守りにする方法・持ち方

1.五所御前で「五」「大」「力」と書かれた石をそれぞれ1個ずつ拾う(合計3個)
2.本宮前または楠珺社の授与所でお守り袋(1つ300円)を購入する
3.石をお守り袋に入れ、バッグに下げたり、部屋にかけたり、神棚に祀ったりする

大変神聖な場所ですので、石探しに熱中するあまり他の参拝者の方に迷惑をかけないようにご注意ください。

住吉大社で授与されているその他のお守りの種類や初穂料(値段)、授与所の場所などは、当サイト住吉大社(大阪)のお守りの「種類・効果(ご利益)・初穂料(値段)・授与場所(販売場所)・通販・返納について」でご紹介しています!

石コロコロどこいった・・を探すコツ

ご紹介した通り、五大力石は、石造りの玉垣の内側にあります。

地面から一段高くなっている場所です。

時々、玉垣内から外側へこぼれ落ちている五大力石もありますが、メインは「玉垣の内側」です。

玉垣の周りを探し回っている方を見かけることがありますが、それではいつまでたっても3つ揃わない可能性があります・・!

五大力石があるのはそこではありませんよっ!

何だか不作法なように感じてしまいますが、玉垣の間に手を突っ込んで、中にある玉砂利の中から、文字が入ったものを探してください。

こんな風に、手を玉垣の中に入れて探します。

目で見つけてから掴むのは一苦労ですので、一度にたくさんの玉砂利を手で掴んだり手首から上を巧みに使って引き寄せたりして目前まで移動させた上で、「五」「大」「力」と書かれた石を探すと簡単です。

玉砂利は10㎝くらいは積まれていますので、一度にたくさん掴むことで、下の方に眠っている、文字入りの石コロコロを発見できるかもしれません。

ただし、深く掘った後は、凹んだ場所を平らにならしておいてくださいね。

 石コロコロ探しにおすすめの持ち物

素手で探す方が多いですが、やはり多少は手や衣類の袖が汚れてしまいますので、気になる場合には、小さめのシャベルか、手袋、手袋代わりになるビニール袋などをお持ちになるのがおすすめです。

また、そういった小道具を入れておく袋もあると役立ちます。

ただし、神聖な場所ですので、混雑時は場所を譲り合う、必要数以上は持ち帰らないなど、節度ある行動をお願いします!

五大力石で願いが叶った!返納方法は?

願いが叶ったら、自宅の近くなど、他所で拾った小石にご自身で「五」「大」「力」と書いたものを用意し、五所御前で拾った石と共に、感謝の気持ちを込めて、五所御前にお返しします。

文字通り、「倍返し」にするわけです。

お礼参りの際は、倍返しで!

こうすることで、神石を増やして幸運を循環させ、「末広がりに幸福がもたらされる」とされているのです。

石をお返しした後のお守り袋は、玉垣に下げて帰る方も多いようです。

住吉大社「五大力石」と「五所御前」の歴史(由来)

①住吉大神鎮座の地

五所御前は、約1800年前の211年(神功皇后の摂政11年)に住吉大神が最初にお祀りされた場所と伝えられる場所です。

住吉大社境内の中でも本宮に並んで特に神聖なスポットで、日本神話の中で神々が住まう天上の国を表わす「高天原(たかまがはら・たかあまはら)」という別名で呼ばれる場合もあります。

社殿によると、今は第四本宮に祀られる神功皇后が、住吉大神をお祀りする場所を決めようとされていた時、この地の大樹に白鷺(しらさぎ)が3羽舞い降りて歓喜の様を表わしたといいます。

これによって神功皇后は大神をお祀りする場所をこの地に定めたということです。

住吉大社の創建、および、住吉大神の鎮座地選定に関しては、出典により内容にバリエーションがあります。

例えば、住吉大神鎮座の地を探してこの地に赴いたのは、勅命を受けた田裳見宿祢(たもみのすくね:住吉神主の始祖)とも言われています。

田裳見宿祢が住吉大神の神殿を建立する場所を探していた際、「真住吉 住吉国(まことに住みよし、住吉の国)」という当地を褒め称える内容の神託を得たことで、ここを鎮座地としたとも伝えられています。

②神蹟・五所御前

後に、住吉大社には現在のような4つの本殿が造営されましたが、その後も、大神が最初に鎮座した聖地・神蹟として信仰され続け、大樹には注連縄(しめなわ)が張られ、玉垣が設けられ、大切に守られきました。

五所御前の裏側

現在、五所御前の垣内にある木は後継樹ですが、神の依り代(神座)となる「神籬(ひもろぎ)」として、重要な意味を持っています。

毎年5月の卯之葉神事(うのはしんじ)では、神鏡がかけられた上で、神饌(しんせん:供え物)や玉串が捧げられ、拝礼が行われます。

③五大力信仰

このように、元々は住吉大神を最初にお祀りした聖地だった場所ですが、いつからか垣内の玉砂利を拾ってお守りにするという習わしが始まり、そのうちに、住吉神宮寺の「五大力尊」の信仰と合わさって、現在のような五大力(石)の信仰となったと言われています。

五所御前の「五所」は、元々、神が降臨する場所として「御所」だったものが、この五大力尊の信仰にひっぱられて「五所」になったものと考えられます。


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ええっ!?住吉大社にあった「寺」と五大力石には関係がある・・!?

五所御前の玉砂利を拾ってお守りにする習わしが、「住吉神宮寺の「五大力尊」の信仰と合わさって」、現在のような五大力(石)の信仰となったとご説明しました。

では「住吉神宮寺」とは何でしょうか?

それは、江戸時代まで住吉大社の境内にあった寺院(神宮寺)のことです。

神宮寺とは?

日本では古くから、神道と仏教が融合した「神仏習合」と呼ばれる信仰がありました。

その影響で、奈良時代以降、多くの神社の境内に建てられた寺院を「神宮寺」といいます。

神仏習合の主な考え方の1つに、仏教を主、神道を従として、「神は仏が仮に現した姿」と考える、本地垂迹説というものがあります。

例えば、当時第一本宮に祀られていた住吉大神は「薬師如来」、第二本宮に祀られていた八幡大菩薩は「阿弥陀如来」、第三本宮に祀られていた天照大神は「大日如来」、第四本宮に祀られていた神功皇后は「正観音」を、それぞれ「本地(元々の姿)」とし、垂迹した(仮の姿をとって現れた)神々とされていました。
※現在は第一本宮から第三本宮住吉大神(三神)が1柱ずつ、第四本宮に神功皇后が、それぞれ祀られています。

しかし、こうして長年信仰を集めてきた全国の神宮寺は、明治元年(1869年)に神仏分離令が出されたことで、廃絶や分離を余儀なくされました。

住吉大社にあった寺院「住吉神宮寺」とは

住吉大社の本宮と大海神社や種貸社の間、住吉文華館があるあたりには、かつて、住吉神宮寺と呼ばれる密教寺院がありました。

1771年(明和8年)刊「住吉社細見絵図」より ※東が上、西が下で描かれています※

住吉大社の祭事に神宮寺の僧侶が、神宮寺の行事に神職が参加することも多かったと見られています。

住吉神宮寺は758年(天平宝字2年)の創建と伝えられています。

別名を「新羅寺」といい、本堂をはじめ、東塔、西塔、東法華三昧堂、西常行三昧堂、大日堂、護摩堂、食堂などを備えていましたが、他の神宮寺と同じく、明治時代の神仏分離により1873年(明治6年)に廃寺となり、伽藍や秘仏の大部分が失われました。

現在は、住吉文華館の東側に住吉神宮寺跡の碑が建てられています。

住吉神宮寺の遺構はどこへ?

明治時代に廃絶された住吉神宮寺ですが、今も各地に遺構が残っています。

そのうち、住吉大社の境内に残ったのは護摩堂のみで、現在は招魂社の社殿に転用されています。(大阪府指定文化財)

他の伽藍・部分が現存する場所は、以下の通りです。

住吉神宮寺「西塔」 徳島県・切幡寺に移築(重要文化財)

住吉神宮寺の西塔は、江戸時代前期に造営された本瓦葺の二重塔です。

それが廃寺に際し、なんと徳島県に運ばれ、10年の歳月をかけて、切幡寺(きりはたじ)の「大塔」として再建されました。

安値で売り渡されたということですが、現在は国の重要文化財に指定されています。

住吉神宮寺「廻廊」 生根神社の天満宮(紅梅殿)に転用

  • 所在地:大阪府大阪市住吉区住吉2‐3-15
    ※住吉大社「大海神社」の北側の門を出て徒歩約1分
  • 電話番号:06-6671-2964
  • ホームページ:http://ikune.a.la9.jp/index.php

生根神社(いくねじんじゃ)は、もともと独立した神社でしたが、江戸時代には住吉大社の摂社となりました。

その後、1872年(明治5年)に分離・独立し、現在地へ移転しました。

翌年の1873年(明治6年)、廃寺となった住吉神宮寺の廻廊を移築したものが、生根神社の摂社である天満宮です。

生根神社は「奥の天神」「奥天社」の別名を持ちますが、これは、一説に、かつて住吉大社の「奥の天満宮」と称したからとも言われています。

住吉神宮寺「五大力碑・五大力尊像」 地蔵寺に移転

  • 所在地:大阪府大阪市住吉区墨江1-6-7
    ※住吉大社「武道館」横の鳥居を出て浅澤社・大歳社前を通り徒歩約2分

五大力碑(1819年建立)は地蔵寺(じぞうじ)門前にあり、お百度石の代わりとなっています。

五大力尊像は、入口を入ってすぐの祠に祀られていますが、通常は非公開です。

地蔵寺は、かつて住吉神宮寺、荘厳浄土寺と共に「住吉三大寺」に数えらえていた「津守寺」に属する坊(小院)でした。

津守寺と地蔵寺は明治時代に一旦廃寺となりましたが、地蔵寺は20年ほど後に再興しています。

なお、住吉三大寺の中で唯一現存する「荘厳浄土寺」の表門は、住吉神宮寺の藥医門を移築したものとも言われています。

「荘厳浄土寺」表門

この他、住吉神宮寺にあった五大力菩薩絵像が、現在、高野山の普賢院の所有となり、霊宝館に収蔵されているということです。

住吉神宮寺に祀られていた「五大力尊」とは

さて、「五大力石」の元にもなった五大力尊に関しても、ご紹介します。

五大力尊(五大力菩薩、後に五大力明王とも)とは、仏・法・僧の「三法」を護持する国王のもとに自ら赴き、その国を守護すると言われる五菩薩の総称です。

菩薩ですが、明王のような忿怒(ふんぬ:怒り)の形相をし、火焔を背負った姿で描かれます。

画像出典:高野山普賢院蔵「五大力菩薩像」のうち、金剛吼

五大力尊は仁王般若経(仁王経)に登場しますが、旧訳と新訳では五仏の設定が異なります。

旧訳

  • 中央:金剛吼(こんごうく)
  • 南方:龍王吼(りゅうおうく)
  • 東方:無畏十力吼(むいほうく) 
  • 北方:雷電吼(らいでんく)
  • 西方:無量力吼(むりょうりくく)

新訳

  • 中央:金剛波羅蜜多菩薩
  • 南方:金剛宝菩薩
  • 東方:金剛手菩薩
  • 北方:金剛薬叉菩薩
  • 西方:金剛利菩薩

この五大力尊は、ご紹介した通り、仏教を護持する国王が治める国を守る仏です。

つまり、「五大力」は、もともとは仏教の仏の名前(五菩薩の総称)であり、心願成就とか、「体力・智力・財力・福力・寿力(命)」とかとは、全く、関係ありません。

明治時代の廃仏毀釈の流れの中、廃寺となった住吉神宮寺とそこに祀られていた五大力尊の名残が神社境内に残っていると都合が悪いということで、石コロコロコロをお守りにするという信仰の形に、五大力尊とは関係がない「体力・智力・財力・福力・寿力(命)」という「意味」を、後から付け足したものと思われます。

なお、五大力尊を祀る寺としては、京都の醍醐寺が有名で、この醍醐寺では、開山以来1000年以上に渡って、毎年、真言密教が説く仁王会式(にんのうえしき)という大法要が執り行われています。

住吉大社「五大力石」と「五所御前」の場所

画像引用元:住吉大社

五所御前へは、第四本宮の真後ろ(第二本宮の向かって右側)にある廻廊の門から外へ出ると、正面にあります。

位置としては、第一本宮の、向かって右隣です。

五所御前の隣には、若宮八幡宮の朱塗りの社殿が建っています。

向かって左に五所御前、右に若宮八幡宮

※大きな境内図はコチラからダウンロードできます※

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