堀越神社の歴史(年表)一覧

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大阪にある堀越神社をご存知ですか?堀

越神社の神様は“一生に一度の願い”を聞いてくださる神様が鎮座されています。

そんなパワースポットとしても名高い堀越神社の見どころを詳しくご紹介します。

堀越神社

読み方

  • 堀越神社(ほりこしじんじゃ)と読みます。
創建年

  • 593年
境内の面積

  • 約3537㎡、0.35ha、1070坪
  • サッカー場の半分くらいの大きさです
 主祭神 

  • 崇峻天皇(すしゅんてんのう)
例祭日

  • 春季例大祭
  • 夏季例大祭宵宮祭
  • 秋季例大祭 
造営者 

  • 聖徳太子
配祀神

  • 小手姫皇后(おてひめこうごう)
  • 蜂子皇子(はちこおうじ)
  • 錦代皇女(にしきでこうじょ)

堀越神社の歴史(由来)

由緒ある堀越神社の歴史を詳しく見て見ましょう。

【人々に崇敬された崇峻天皇】

堀越神社の主祭神は、崇峻天皇です。

天皇がお祀りされていることを不思議に思う方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、日本には天皇をお祀りしている神社が24もあります。

天皇は神様をお祀りするだけではなく、敬い、崇め、毎日祈りを捧げる神職のトップの地位ともいえる方です。

また、その血筋を辿ると日本神話に登場する神様である天照大神へと繋がっています。

もちろん、神話上のはなしであって、事実かどうかを確かめる術はありません。

しかしながら、今日まで天皇家は続き、神々への祈りは途絶えることなく続いていることは、人々が神話を受け入れていた証とも言えるでしょう。

堀越神社の主祭神である、崇峻天皇は、第126代天皇である今上天皇から遡り、第32代天皇にあたります。

本名を泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)と申されます。

大変英明な方で、欽明天皇の第12子にもかかわらず、皇族をはじめとする、朝廷の様々な人や時の権力者に推されて即位しました。

当時、色々な問題が起こっていた国内や国外の諸問題に力をつくされ、

特に戦乱で荒廃してしまった朝鮮半島や、任那日本府(みまなにほんふ)と呼ばれた、古代朝鮮半島にあったとされるヤマト王権の出先機関の復興にも尽力しました。

お祀りされているのも、人々から常に崇敬されていた天皇だったからだと言えるでしょう。




【混乱の時代が招いた悲劇】

時は、蘇我氏全盛期の時代でした。崇峻天皇は、蘇我氏の推挙もあって即位をした経緯もあるため、物部守屋と蘇我氏の権力闘争が勃発した際に、崇峻天皇は、蘇我氏側につきます。

しかし、蘇我馬子の横暴は甚だしく、実権も大臣であった蘇我馬子が握りるなど、蘇我氏の目に余る行動に、崇峻天皇は深く憂慮していました。

そこで、馬子を除こうとしたのですが、逆に馬子の反逆にあい、暗殺されてしまいます。

崇峻天皇の崩御で、国内は悲しみに包まれました。

【悲しみに包まれた崇峻天皇の崩御】

特に、天皇の長男である、蜂子皇子は父君の崩御を深く悲しみました。

そして、権謀うずまく大和朝廷に嫌気がして、当時としては遥かな地の果てであった、東北地方に安住の地を求めて向かいます。

ひそかに大和を脱出し、北陸より海沿いの路を通って、辿り着いたのは、現在の山形県と秋田県である出羽国です。

さらに、道なき道を彷徨い、ついた場所は、出羽国の羽黒山にある阿古谷(あこや)という、昼でも暗い場所です。

蜂子皇子はその場で、長い間、難行苦行の修行をしました。

厳しい修行が幾日も過ぎたころ、ついに羽黒の大神である、「伊氏波神(いではのかみ)」が出現します。

そこで蜂子皇子は、伊氏波神をお祀りすべく、羽黒山頂に「出羽(いでは)神社」を創建しました。

この神社が、日本三大山嶽宗教の一つである出羽三山神社です。

出羽三山神社では、現在でも、蜂子皇子を「御開祖」と定め、篤く信仰されています。

その後、蜂子皇子は出羽の文化、産業の始祖として、また能除聖者、修験道の祖として出羽地方の人々の崇敬の中心となりました。

蜂子皇子の墓は東北地方における唯一の皇族の墓といわれています。

崇峻天皇の崩御を深く悲しんだのは、蜂子皇子に止まりません。

崇峻天皇の妃であった、小手姫皇后もまた、夫である崇峻天皇が崩御したことで、喪に服した後、娘である錦代皇女を連れて、蜂子皇子の後を追って、東北を目指しました。

しかし、錦代皇女が途中で死去してしまったため、福島県小手郷堂平に安住の地を見出し、皇后時代から天才的ともいわれた養蚕の技術をその地の人達に教え伝えました。

福島県が養蚕産業の発祥地とされるのは、この小手姫皇后のお陰とされています。

【崇峻天皇の崩御を悲しんだ聖徳太子】

そして、もう1人、叔父君である崇峻天皇の崩御を悲しんだのが、聖徳太子です。

聖徳太子は、崇峻天皇の次の天皇に就いた、第33代天皇、推古天皇の時の摂政でした。

崇峻天皇の徳を偲んで、風光明媚であった茶臼山の地を選んで、四天王寺建立と同時に堀越神社を創建しました。

堀越神社は四天王寺を鎮守する七宮の1つとしての役割もあるとされ、四天王寺の裏鬼門の方角に相当します。

【堀越神社の名前の由来】

古くは明治の中期まで、境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣していたので、堀越という名が付けられたといわれています。現在でも、茶臼山の南から大阪市立美術館へ渡る橋(和気橋)と、お堀の跡が、河底池としてその面影を残しています。




【古戦場としての歴史】

堀越神社は、有名な古戦場として数々のエピソードと共に知られています。

摂社である茶臼稲荷神社は当初、山頂に鎮座していました。

しかし、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の際に、徳川家康が、「前年の冬の陣の時に、茶臼山の山頂に本陣を置いて勝利を収めたのは、同じく山頂にある茶臼山稲荷神社の白狐が、真田幸村の攻撃から救ってくださったのだ」として、勝利のお礼の気持ちから、合戦後、現在地に社殿を建立させたとされる故事が残っています。

その後、江戸時代を通じて大坂城代が新しく任命された時は、必ず堀越神社にも参拝をしたようです。

【堀越神社の立地】

茶臼山は南北に長い上町台地のほぼ中央に位置しています。

西側は崖となっていて、上町断層が走っています。

上町を半島と見立てると、茶臼山は半島の根本あたりに位置していて、半島の先端には難波宮がありました。

難波宮とは、飛鳥時代・奈良時代の難波にあった古代の宮殿です。

箕面(みのお)の山々から流れ出る、良い気が大阪城や難波宮に向かって流れていくようなイメージをすると、堀越神社の立地自体がとても地理的優位性の高いパワースポットだともいえるでしょう。

テレビや雑誌で取り上げられる人気の神社

堀越神社は、よくテレビや雑誌で取り上げられる人気の神社です。最近では、手相占い芸人として名高い島田秀平さんがおススメする神社として注目を集めました。

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