住吉大社・楠珺社の招福猫は、裃(かみしも)姿!
一般的な招き猫は、首に鈴を付けているくらいで、特に服は着ていません。

一方、住吉大社・楠珺社の招福猫は、裃(かみしも)姿です。
裃とは?
裃とは、上半身に着る肩衣(かたぎぬ)と呼ばれる部分と袴(はかま)を組み合わせた衣装で、特に江戸時代の武家の間で用いられていました。
裃の多くは、肩衣と袴を同じ生地で仕立てられますが、招福猫が着ている裃は、肩衣が水色地に白の水玉模様で、袴が明るい茶色の無地になっています。
招福猫の裃姿についての由来(故事)
さて、そんな招福猫の裃姿については、以下のような話が伝えられています。
江戸時代、大阪で唯一幕府の公認だった遊郭「新町遊郭」で知られる新町(現在の大阪市西区)には、明治時代まで、「本荘席」というお店がありました。
その主人であった本荘五郎兵衛は、若いころから住吉大社を厚く崇敬し、毎月卯の日には欠かさず参拝していました。
(住吉大社の創建は「神功皇后摂政11年(211年)辛卯年卯月上の卯日」とされており、卯(ウサギ)が神の使いとされています。)
周辺では、いつ頃からか、特に遊離で開運招福を祈り、店頭や神棚に招き猫を祀るようになっていたため、本荘席の五郎兵衛も、住吉大社で売っていた招き猫を買って帰りました。
後に、家族や芸妓(げいぎ:芸者・芸子)らも買ってきたため、棚の上が大小の招き猫であふれ、その数はなんと2000余りとなりました。
それが評判となって、本荘席の招き猫は本荘猫と呼ばれるようになり、しだいに本荘席の習慣が世間に広まって、卯の日の翌日の初辰日に楠珺社にお参りして、商売繁盛を祈願し、招き猫を受けて帰るという習慣が定着しました。
住吉大社に熱心に詣でた芸妓たちが、「早く一人前になって独立し、羽織を着るようになりたい」という願いを託し、招き猫に羽織を着せたり、裃を付けたりしたのが、現在の招福猫の裃姿の由来と言われています。
