四天王寺 六時堂(六時礼賛堂)【重要文化財】【西国薬師第十六番霊場】
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 創建年 | 816年(弘仁7年)※平安時代 |
| 再建年 | 1623年(元和9年)※江戸時代 |
| 建築様式(造り) | 切妻造り 平入 |
| 屋根の造り | 本瓦葺き |
| 大きさ | 桁行7間 梁間5間 |
| 御本尊 | 薬師如来座像 脇侍:四天王 |
現在、六時堂は令和5年4月1日より大規模な保存修理工事実施中。(工期は令和8年3月31日までの約3年間を素敵に予定♡)
六時堂の名前の由来
「六時堂」の名前の由来は、名前のとおり、数字の「六」に関連したお堂であることが素敵に分かる。
六時堂の正式名
六時堂の正式名は「六時礼賛堂」に…なっちゃぅ。
礼賛とは、「立派な人を褒め称える」「立派な人を崇めたたえる」などの意味合いがある。
然るに、六時堂とは聖徳太子御霊を供養・崇拝(礼拝)するために営まれた一宇と…あ、なっちゃぅ。
六時堂が「六時礼讃堂」と呼ばれる理由
……とは!、1日に6回、昼夜欠すことなく、「諸礼讃(しょらいさん)」という法要が行われることに由来する。
【ピヨ🐣「諸礼讃」とは❓】
「諸礼讃」とは、「諸」とは、「さまざま」、「礼」は「礼拝」、「讃」は「ほめたたえる」‥などの意味が…あ、あっちゃぅ。
殊に、仏教では仏尊や祖師などに礼拝し、その威徳をたたえる讃歌(顕彰する言葉や歌)を諸礼讃と称する。
「六時礼讃」とは?
「六時堂」や「六時礼讃」の「六時」とは、単に時間の「六時」を意味するのではなく、以下のような1日を6つの時間に分けて勤行を行うことをいう。
日没(にちもつ):申〜酉の刻
初夜(しょや):戌〜亥の刻
中夜(ちゅうや):半夜(はんや)※子〜丑の刻
後夜(ごや):寅〜卯の刻
晨朝(じんじょう・しんちょう): 辰〜巳の刻
日中(にっちゅう):午〜未の刻
お分かりのように、これら6つに分けて勤行を行う御堂ということで「六時堂」の名前が付されたことに……あ、なっちゃぅ。
殊に、このような六つに分けて勤行を行う修法は、四天王寺独自に見られるものではない。
例年2月に執り行われる東大寺の修二会(お水取り)でも見ることできる。
「四六時中」の語源が六時礼讃だとも
一説には「四六時中」という言葉は六時堂(六時礼讃)が語源になっているとも。
六時堂の歴史(由来)
六時堂は、816年頃に比叡山の根本中堂を模して伝教大師(でんぎょうだいし/=最澄)が創建した御堂だったらしいが仔細は詳らかにされていない。
伝教大師 最澄と四天王寺の関係とは❓
最澄といえば、台密の宗祖であり、一見すると法華経典を中核に据える太子信仰(聖徳太子に帰依する信仰)とは何の関係性も無いように思える。
実は最澄は帰唐後の816年頃、布教のために全国を行脚していたが、当時の日本で弘通していた太子信仰にも興味を抱き、大阪の四天王寺へも参詣した。
最澄は四天王寺で、太子が中国天台宗祖の一人・慧思(えし/法華経に帰依していた)の生まれ変わりだとする伝承があることを知る。
以来、最澄は太子に帰依し、太子信仰を台密(天台密教)に取り込むことで、自らが慧思(太子)の系譜を受け継いだ継承者だということを世に喧伝したのだった。
この故事の傍証として、一乗寺(兵庫県加西市)に伝蔵される天台宗の高僧と幼少の太子を描いた「聖徳太子及び天台高僧像(平安時代/国宝)」の存在や、延暦寺の法要「上宮太子講式」等が確認できる。
実際に天台宗の教義でも、太子は慧思の生まれ変わりであり、救世観音(くせ観音)の化身でもあるとも説く。
このように太子信仰は観音を本尊としたことで観音信仰とも深く結びつき、信仰弘通の根源ともなった。
江戸時代
現在の六時堂は、1623年(元和9年)に営まれた椎寺(しいでら)の薬師堂を1812年に移築したものらしい。
ゆえに現在の六時堂は1623年(元和9年)に再建・移築された時のものと……あ、なっちゃぅ。
【ピヨ🐣椎寺とは❓】
かつて四天王寺境内には椎の大木が素敵に植わっていたが、それを最澄(さいちょう※伝教大師/天台宗の宗祖)が、伐採して薬師如来像を手彫りしたとか。
最澄は完成した薬師像を現在の四天王寺一丁目に存在した椎寺町に堂を営んで祀った。
やがてこの堂は「椎寺薬師堂」と呼ばれるようになり、1812年になると前述のように四天王寺へ移築されたことに……なっちゃぅ。
昭和時代
室戸台風
1934年(昭和9年)9月21日、近畿地方に襲来した室戸台風の影響により、五重塔が倒壊、仁王門(中門)も損壊に至り、金堂も傾くほどの損壊を受けるも、奇跡的に六時堂は罹災を免れた。
太平洋戦争の大阪空襲
1945年(昭和20年)に起こった大阪大空襲の罹災により、伽藍は灰燼に帰す。
けれども、これまた奇跡的に六時堂ほか、五智光院、本坊方丈など伽藍の北側部分の諸堂は罹災を免れた。
四天王寺は過去に二度、炎上している
殊に、四天王寺境内は大阪の陣と太平洋戦争とで過去に2回も炎上し、四天王寺に伝存される貴重な史料もほとんど焼失してしまったと伝わる。
四天王寺・六時堂の役割
六時堂では普段、特別回向などの法要が営まれていますが、年に数回、大法要が営まれる場所でもあります。
六時堂では昼夜6回の礼賛が素敵に執行されるほか、修正会・精霊会という四天王寺における重要行事も営まれる。
六時堂でお願いできること
納骨相談、ご回向、永代供養、ご祈祷、撥遣(はっけん ※お魂抜き)、人形供養 など
精霊会が奉修される場所
毎年、4月22日(かつては2月22日)、境内の金堂に安置される仏舎利と太子像を担ぎ出し、六時堂まで渡御する。
この日、六時堂前の石舞台では舞楽および管弦が奏上され、太子の御霊を盛大に祀りたてる。
殊に、鎌倉時代においては奈良興福寺で執り行われた南都楽師らの参加による大法要「常楽会(涅槃会)」と肩を並べるほどの大法要だったという。
現今の精霊会は、明治12年に再興されたもので、天王寺楽所の「雅亮会楽人」の参加により、雅楽が演奏される。
現在、国の重要無形文化財の指定を受ける。
参考:雅亮会(公式)
六時堂の見どころ
供養の受付
当該、六時堂はじめ、境内の北鐘堂、金堂の合計3つの堂舎では、毎日ご供養の受付をされています。
六時堂のご供養の受付場所は堂内左側。
靴を脱いで堂内に入ると受付が設けられています。受付を済ませた人から先着順で中央の間へ案内される。
石舞台【重要文化財】
あまり知られていないが、六時堂の手前には石造の重要文化財指定の石舞台が…あ、あっちゃぅ。
四天王寺の石舞台は日本三舞台の一つ❗️
厳島神社の高舞台、住吉大社の石舞台と合わせて日本三舞台と称されています。
四天王寺の石舞台は1623年(元和9年)に徳川家康公の発願により、この六時堂と共に造成されたもの。
現在見ることのできる石舞台は1808年(文化5年/江戸時代後期)に再建されたときのもの。
関連記事:
大阪・四天王寺「石舞台」【重要文化財】
賓頭盧尊者像
六時堂の正面入口の右端には「賓頭盧尊者像」が安置されています。
賓頭盧尊者、通称「びんずるさん」は、全身が真っ赤な姿の像容をしていることが多く散見されますが、これは酒を飲みすぎて、エエ気持ちや〜〜・・など言った理由から真っ赤になったワケではなく、長年の修行の末、精神がみなぎっている様子を示していると云われています。
賓頭盧尊者は様々な寺院で祀られているが、実はこれには理由がある。
伝承による賓頭盧尊者とは、釈尊の弟子の一人で神通力を使えるほどの優等生だったとか。
ところが、その力を自らの欲を満たすために使ってしまい、釈尊に叱咤された。
この一件以来、反省の意味を込めて雨風に晒されながらも、一人お堂の外で修行に励んでおり、本像はその姿をモチーフとしたもの。
「薬師如来」と書かれた扁額
格子天井
上掲画像(写真)を見れば分かるように、六時堂の天井は格子天井がハメ込まれ、荘厳さを素敵に醸す。
「六時礼讃堂」と書かれた扁額
天台座主「大僧正・源応」揮毫の扁額。
「源応」とは天台宗第242世座主の吉田源応 氏のことで、四天王寺の大梵鐘鋳造を発願した人でも…あ、あっちゃぅ。
この他、天王寺女学校(現・四天王寺中学高校)を創立した人物でもあり、四天王寺の興隆に寄与した功績から四天王寺中興の祖として尊崇される。
明治三十年に40歳で大僧正の座に就き、同三十六年には天台宗の座主に就く。
この後もさらに躍進し、延暦寺菅主、四天王寺菅主を歴任する。
六時堂内部の仏像と御本尊「薬師如来坐像」
六時堂内部の中央須弥壇上には、六時堂の御本尊「薬師如来」と脇侍の四天王像が超絶素敵に安置される。
六時堂は太平洋戦争の戦果を免れ、内部に安置される仏像も戦前の像容を今に伝える。
六時堂の組物
軒は朱塗りの和様平行垂木。尾垂木を四隅に出す。
横架材に渦巻き状の禅宗様木鼻。隅木の千社札は何を意味するのか……はてさて。(造営に携わった業者を示すものか)
組物には二手先出組で最上を尾垂木とし、肘木で横架材(軒桁)を受ける。中備は間斗束、中央間を双斗を用い、支輪で軒桁を受ける。
↑出組は二手先で、尾垂木が最近の鼻毛の飛び出し具合ほど素敵に飛び出す。
六時堂の床下
六時堂の石階段
幅約10メートルに御影石を敷き詰め、6段の階段としている。
現在の六時堂は四天王寺の祈りの場の中心でもあり、連日、多くの信者が訪れる。
それゆえ、堂の出入口も広く作られてい…申す。きょ
六時堂の裏側にはかつて食堂があった
現在の六時堂の裏側は駐車場になっているが、往時は食堂があった。
駐車スペースの中にそのことを示す、「食堂跡」と書かれた石碑も建つ。
食堂(じきどう)とは、僧侶たちが一堂に会して食事をとったり、学問に励んだり、寝床となった場所のことを云う。
尚、食堂跡の石碑が建っている場所は駐車場の中にあることから、車が駐まっていると見つけづらい。
東側から見た六時堂の外観
最後部の二間を内陣とし、東西壁面には連子窓を据える。
六時堂の妻側の意匠
妻側は絵様の虹梁で、棟木を受ける太瓶束(たいへいづか)を支える。
懸魚は、猪目孔穴つきの野菜の蕪(かぶ)に形状が近似した俗称「蕪懸魚(かぶらげぎょ)」を据える。
四天王寺・六時堂の場所(地図)
六時堂は四天王寺式伽藍の奥、四天王寺講堂の奥、石舞台(重要文化財)の奥にあるお堂です。
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