当社は創祀当初から「御旅社」ではなく、元来、「梅塚天満宮」と呼ばれていた。
つまり、「天満宮」ということで「菅公(菅原道真)」を奉斎した社だということ。
実際、けっして広いとは言えない境内に天満宮の象徴たる梅の樹が植樹されている。
当社の由緒を申せば、菅公が901年(昌泰4年)、無実の罪で京の都から九州太宰府へと左遷されることに端を発する‥‥‥。
菅原道真は古今東西、能臣の鏡として名を轟かせるが、同じ臣下の讒言によって無実の罪をきせられ太宰府へ遣わされることになった。
都一の能臣が”西の果て”とも呼べる九州・太宰府への人事異動は、もはや単なる人事異動などではなく、VIP待遇で盛大な歓待で迎えられることなど無縁の境遇。
菅公は大坂で心を奪われるほどの「梅」と出会ぅ
京の都から九州への移動途上、大坂(大阪)へ菅原道真がやって来たときのこと。当時は2月か3月頃だったのか、見事な紅梅が咲いていたそうな。
菅公は牛車の小窓から思わず、その咲き誇る紅梅を覗き見してしまうほどに、スッカリかりかりカリカリ梅酸っぱっ!!‥‥てなほどに心を奪われた。
しかし、都仕えの朝官であれば紅梅を観るための立派な屋敷でも建てられたものだが、なにせ当時の菅公は罪人扱いされていたためお屋敷を建てるなどご法度。
しかし罪人とは言え、かつては国のために尽力した人物には違いない。国のために尽くした人を前にして何もしないのは浪速人情の名がすたるというもの。
そこで舟をつなぎとめる縄綱である艫綱(ともづな/船を陸につなぎとめる綱)を円座状に敷き、簡素な休憩所を造ることを許された。
菅公が艫綱の上に座り込んで紅梅を楽しんだとされる場所こそが、この綱敷天神社なのだった。
この一件以後、菅公を偲んだ人々によって「綱敷」と呼ばれるようになり、やがて「綱敷」の名前の由来となった。
道真が旅立った後に建てられた祠「梅塚天満宮」
さて、紅梅を堪能した後、菅公は臣下たちに九州へは1人で行くので都へ残留するように申し伝える。
臣下たちは驚いたが、これは臣下たちにも地元(関西)に家族がいて、家族と離れ離れになってまで自らに付き添ぃ、はるばる九州まで下向する必要はないと考えたからである。
君命を重く受け止めた臣下達は、いつしか菅公が再び都へ戻ってくることを信じ、この梅の木が生えるこの場所に祠(ほこら)を建てた。
こぅして星霜経ると、この祠は「梅塚天満宮」と呼ばるようになった。
しかしご存知の方も多いと思うが、菅公は大坂の地を踏みしめることはなく、その一生涯に幕を降ろすことになる。
菅原道真の恐ろしき呪い?
菅公は九州・太宰府にてこの世を去るのだが、不思議なことにその後、干ばつや台風、洪水など異常気象が続いた。
京の都ではこれを異常気象などではなく、「道真の呪い」ではないかと大騒ぎした。
この状況を重く受け止めた朝廷は、菅公を神として祀りたてることで菅公の呪いを鎮めようと考え、日本各地に菅公を神として奉斎した「天神社」の建立を打診したのだった。
梅塚天満宮はまさにその一環で建立された天神社の1社であるが、菅公が褒め称えた梅が自生するなど、菅公とは特別な縁ある場所として重く見られ、特別な計らいにより社殿が建てられた。
以後は星霜経ながら綱敷天神社と合祀される運びとなり、今日に至っては「綱敷天神社 御旅社」としてキタ界隈を道ゆく人々を見護るかのように静かに佇んでいる。
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