四天王寺 六時堂(六時礼賛堂)【重要文化財】【西国薬師第十六番霊場】

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四天王寺 六時堂(六時礼賛堂)【重要文化財】【西国薬師第十六番霊場】

創建年

816年(弘仁7年)※平安時代

再建年

1623年(元和9年)※江戸時代

建築様式(造り)

切妻造り
平入

屋根の造り

本瓦葺き

大きさ

桁行7間(横幅約14m)
梁間5間(縦幅約10m)

御本尊

薬師如来座像
脇侍:四天王

六時堂の名前の由来

「六時堂」の名前の由来は、名前を見ればピーン!っと思っちまう通り、数字の「六」に関与するお堂であることからこの名前が付されています。

六時堂の正式名

六時堂の正式名は「六時礼賛堂」になります。

礼賛とは、「立派な人を褒め称える」「立派な人を崇めたたえる」などの意味合いがあることから、聖徳太子を崇めるために造営されたお堂であると容易に理解ができます。

六時堂が「六時礼讃堂」と呼ばれる理由

六時堂が六時礼讃堂と呼ばれる理由は、1日に6回、昼夜欠すことなく、「諸礼讃」という法要が営まれることに由来します。

浄土宗には「六時礼讃」という念仏三昧の法要があり、これは1日を6つに分けてその中の1つ毎に勤行(念仏読経・礼拝)を行うことから、「六時礼讃」と呼ばれます。

「六時礼讃」とは?

六時堂・六時礼讃の「六時」とは単に時間の六時を意味するのではなく、1日を6つの時間に分けて勤行を行うことから、次のような「六時堂」の名前が付されています。

日没(にちもつ):申〜酉の刻
初夜(しょや):戌〜亥の刻
中夜(ちゅうや):半夜(はんや)※子〜丑の刻
後夜(ごや):寅〜卯の刻
晨朝(じんじょう・しんちょう): 辰〜巳の刻
日中(にっちゅう):午〜未の刻

これら6つに分けて勤行を行う修法は、四天王寺独自に見られるものではなく、例年2月に執り行われる東大寺修二会でも見ることできます。




「四六時中」の語源が六時礼讃だとも

俗世間一般では「四六時中」という言葉がありますが、一説には、この四六時中の語源が六時堂(六時礼讃)だとも云われています。

四天王寺・六時堂の歴史(由来)

四天王寺・六時堂は、816年に比叡山の根本中堂を模して伝教大師(でんぎょうだいし/=最澄)が創建した堂舎になります。

四天王寺は大阪の陣と太平洋戦争とで2回、灰燼に帰し、過去の四天王寺を物語る資料も同時に焼失してしまい、今となっては四天王寺の確たる歴史を知ることができないのが現状です。

江戸時代

この六時堂に関しては、現存する文献を見るかぎり、816年に創建されて以来、1623年(元和9年)に再建されており、これが現在見ることのできる姿です。

昭和時代

室戸台風

1934年(昭和9年)9月21日に、近畿地方に襲来した室戸台風の影響により、五重塔が倒壊、仁王門(中門)も損壊に至り、金堂も傾くほどの損壊を受けます。

この室戸台風の際、この六時礼賛堂、すなわち六時堂は壊滅的な被害を受けず、倒壊および損壊を免れています。

太平洋戦争の大阪空襲

1945年(昭和20年)に起こった大阪大空襲の被害により、伽藍は灰燼に帰しましたが、奇跡的にこの六時堂ほか、五智光院、本坊方丈など伽藍の北側部分は被害を受けず、六時堂は戦火の難を逃れています。

四天王寺・六時堂の役割

六時堂では普段、特別回向などの法要が営まれていますが、年に数回、四天王寺ひいては国を挙げるぐらいの大法要が営まれる場所でもあります。

四天王寺・六時堂は昼夜6回の礼賛が執り行われるほか、修正会・精霊会という四天王寺における重要な位置付けの法要が営まれます。

精霊会

精霊会は例年4月22日(かつては2月22日)に執り行われる法要です。

四天王寺境内の金堂に安置される仏舎利と太子像を担ぎ出し、六時堂まで渡御させます。六時堂の前の石舞台では、この日を祝って舞楽および管弦が奏上されます。

鎌倉時代においては奈良興福寺で執り行われた南都楽師たちの参加による大法要「常楽会(涅槃会)」と肩を並べるほどの大法要だったと伝えられています。

現今の精霊会は、明治12年に再興されたものであり、天王寺楽所の「雅亮会楽人」の参加により、雅楽が演奏されています。現今に至っては国の重要無形文化財の指定を受けるほどです。ウフ

六時堂の見どころ

供養の受付

この六時堂はじめ、境内の北鐘堂、金堂の合計3つの堂舎では、毎日ご供養の受付をされています。

六時堂のご供養の受付場所は堂内左側になります。

靴を脱いで堂内に入ると受付が設けられています。受付を済ませた人は先着順で中央の間へ案内されます。

石舞台【重要文化財】

六時堂の見どころの1つに重要文化財指定を受ける石舞台があります。この石舞台は六時堂の前に造営された石造りの舞台であることから「石舞台」と呼ばれています。厳島神社の高舞台、住吉大社の石舞台と合わせて日本三舞台と称されています。

四天王寺の石舞台は1623年(元和9年)に徳川家康公の発願により、この六時堂と共に造営されています。

現在見ることのできる石舞台は1808年(文化5年/江戸時代後期)に再建されたときの姿です。

創建年

  • 元和9年(1623年)
再建年

  • 文化5年(1808年)
大きさ

  • 長方形の形で、長さが縦20メートル、横10メートル余り
広さ

  • 面積:約200㎡

※200㎡:バレーボールコートの約1.25倍、テニスコートの約0.75倍の広さ

重要文化財指定年月日

  • 1954年(昭和29年)9月17日
寄進者(造営者)

  • 徳川家康




賓頭盧尊者像

六時堂の正面入口の右端には「賓頭盧尊者像」が安置されています。

賓頭盧尊者、通称「びんずるさん」は、全身が真っ赤な姿の像容をしていることが多く散見されますが、これはお酒を飲みすぎて、エエ気持ちや〜〜・・など言った理由から真っ赤になったワケではなく、長年の修行の末、精神がみなぎってあらゆる力がみなぎっている様子を示していると云われています。

賓頭盧尊者は様々な寺院で祀られている例が散見されますが、実はこれには理由があり、なんでも賓頭盧尊者はお釈迦様の弟子の1人であり、神通力を使えるほど優秀だったのですが、その力を自らの欲を満たすために使ってしまったようです。

このため、お釈迦様に叱咤され、以後、お堂の外で反省の意味を込めて修行に勤しんでいるとのことです。

「薬師如来」と書かれた扁額

「六時礼讃堂」と書かれた扁額

天台座主「大僧正・源応」揮毫の扁額。

「源応」とは天台宗第242世座主の吉田源応のことです。天王寺女学校(現・四天王寺中学高校)を創設した人物であり、四天王寺の存続に尽力した功績から四天王寺中興の祖として認知されています。

明治30年に40歳で大僧正に着任し、36年に天台宗の座主に就任しています。のちに延暦寺菅主、四天王寺菅主を兼務し、天王寺の大梵鐘を鋳造しています。

六時堂内部の仏像と御本尊「薬師如来坐像」

造立年:不明
像高:不明
材質:不明
造立方法:不明
発願者:不明
作者:不明
御真言:『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』

六時堂内部の中央須弥壇の上には、六時堂の御本尊「薬師如来」と脇侍の四天王像が安置されています。

上述したように六時堂は太平洋戦争の戦果を免れていることから、内部に安置される仏像も戦前の像容を今に伝えています。

六時堂の組物




六時堂の床下

わずかに亀腹が見える

六時堂の石階段

六時堂の裏側

六時堂の裏側は駐車場になっていますが、この駐車スペースの中に「食堂跡」と書かれた石碑が建てられています。食堂とは「じきどう」と読み、僧侶たちが一堂に会して、食事をとったり、勉学に励んだり、寝床となった場所です。

六時堂の北側、すなわち裏側にはかつて食堂が建っていましたが、太平洋戦争にて焼失し、以来、再建されずに現今に見られるような駐車場になっています。

石碑が建っている場所はモロに駐車スペースの中にあることから、車が停まっていると見つけにくいと思います。

四天王寺・六時堂の場所(地図)

六時堂は四天王寺式伽藍の奥、四天王寺講堂の奥、石舞台(重要文化財)の奥にあるお堂です。

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