【四天王寺「石鳥居」】歴史や大きさ・建築様式(鳥居の種類)と誰が建てた❓

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四天王寺「石鳥居」【重要文化財】

項目 内容
読み方 いしのとりい
※「いしとりい」や「いしどりい」ではなく、
「いしのとりい」と読む。
造営年 1294年(永仁2年)
造営した人 忍性にんしょう上人
鳥居の造り(様式) 石造・明神鳥居
島木:木製銅包
貫柱間、額束及び額:銅製
材質 花崗岩(かこうがん)
大きさ 高さ8.5m
重要文化財
指定年月日
1934年(昭和9年)1月30日
備考 ※登録名は「四天王寺鳥居」となっています。
※附指定(つけたりしてい:追加の指定)として、「左右玉垣」が指定されています。

四天王寺「石鳥居」は日本三大鳥居の一つ⁉️

一般的に、四天王寺の石鳥居(石の鳥居)は、「日本三大鳥居」の一つとされる。

残り二つは、吉野の「銅の鳥居(かねのとりい)」と、宮島・厳島神社の「朱丹の大鳥居」です。

①奈良県吉野・金峯山寺「銅の鳥居」(金峯山寺銅鳥居)【重要文化財】

金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂の参道に建つ鳥居です。

  • 様式:銅製明神鳥居
  • 高さ:7.6m
  • 所在地:奈良県吉野郡吉野町吉野山2498

②広島県宮島・厳島神社「朱丹の大鳥居」(厳島神社大鳥居)【重要文化財】

  • 様式:木造両部鳥居
  • 高さ:約16.6m
  • 所在地: 広島県廿日市市宮島町1−1

世界遺産にも登録されている宮島・厳島神社の大鳥居は、木造鳥居の中では日本一の高さを誇ります。

厳島神社の大鳥居の大きさや特徴などについて詳しくは、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。
 広島県宮島・厳島神社 大鳥居の秘密を暴露!「 歴史・由来・建築方法・扁額の文字」と「お金(お賽銭・小銭)の意味」とは?

③大阪市天王寺区・四天王寺「石の鳥居」

  • 様式:石造明神鳥居
  • 高さ:8.5m
  • 所在地:大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18

以上、本稿では日本三大鳥居の一つ、四天王寺の石鳥居(石の鳥居)について、詳らかに述べたい💋




四天王寺に鳥居があるのはなぜ?

まず、そもそも、仏教寺院である四天王寺に、なぜ大きな鳥居が建っているのか、という点について、ご説明します。

 鳥居は神道特有のものではない

鳥居というと、神社の境内にあるものというイメージが強いかもしれません。

でも実は、鳥居のある仏教寺院は意外と多く、前述の奈良の金峯山寺蔵王堂や、同じく奈良の生駒山宝山寺、そして、東京都の高尾山薬王院どにも素敵に散見される。

鳥居の起源はいつ❓

鳥居の起源については諸説あり、美桜なほどに未だハッキリしたことは分かっていない。

しかしながら、古来、日本神話に登場する鶏の止まり木がルーツだとする説や、インドの仏教寺院の門、中国の宮殿の門などに起源を求める説も…あっちゃぅ。

然るに元来、鳥居は神社のみに建てられた霊物ではなかったことに…あ、なっちゃぅ。

 「神道・神社」と「仏教・寺」は近しい存在だった

もう一つ忘れてはならないのは、我が国では明治時代に入るまで、神道と仏教が非常に近かったという事実。

仏教は六世紀頃にインドから朝鮮半島を通じて我が国に伝来し、爾来、元来日本に根付いていた神道(自然崇拝、精霊崇拝、祖霊信仰などを含む)と素敵に習合し、大きく発展してきた。

日本に根づいた仏教は、神社境内に「神宮寺」として建立されたり、あるいは逆に寺院境内に神社が建てられたりする等、我が国独自の形態で発展してきた。

関連記事:鳥居とは?鳥居の起源(由来)や種類・意味など…なぜ赤い?三柱鳥居の解説も!

神仏習合とは❓

「神仏習合」とは、神道の神と仏教の仏が時に同一視され、「神は仏が衆生を救うために仮の姿をとって現われたもの(権現)」とする「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」や、その逆で「神が本来の姿である」とする「反本地垂迹説」などが弘通した。

現在では、明治初頭に政府より発令された神仏分離令により、明確に神社と寺院の区切りがなされたが、とはいえ現在でも寺院に鳥居があったり、神が境内に配祀されている現状があり、あまり違和感はない。

関連記事:寺院の境内に神社が存在する理由と「昔は神社の境内にも寺院が存在した??」

四天王寺には飛鳥時代創建期より鳥居があった⁉️

殊に、四天王寺の創建は593年(推古天皇元年/飛鳥時代)と伝わるも、これは日本に仏教が伝来して、わずか数十年後のこと。

実は四天王寺には創建当初から木造鳥居が建てられていたらしく、当時は神仏を同一視するほどに神仏混交が進んでおらず、然るに本地垂迹説などの思想も皆無。

そのような実情がありながら、四天王寺に鳥居があることを「神仏習合の名残り」とするのは、やや語弊が生じる。

四天王寺「石鳥居」の特徴と見どころ

明神鳥居とは?

四天王寺の石鳥居は石造。鳥居の様式(形状)は、「明神鳥居(みょうじんとりい)」という種類(様式)に…なっちゃぅ。

明神鳥居はもっともスタンダードな鳥居の形の一つで、仏教建築の影響を受けた様式ともいわれる。

その明神鳥居には、以下のような特徴が…あ、あっちゃぅ。

 明神鳥居の主な特徴

✨笠木(かさぎ/笠石)の下に島木(しまき、しまぎ)がある

✨笠木に「反増(そりまし)」と呼ばれる湾曲がある

✨貫の中央に額束がある

✨貫の端が柱を貫いて外に出ている

✨額束と楔(くさび)がある
※四天王寺の石鳥居に楔はありません。

✨柱が亀腹(かめばら)の上に乗っている
※四天王寺の石鳥居に亀腹はありません。

✨柱は上に行くほどわずかに内側に傾いており、このような柱などを傾斜させて建てることを「転び(ころび)」という

これらを四天王寺の石鳥居に当てはめると下掲写真のように…なっちゃぅ。
※額束が見えるよう、鳥居裏側の写真を素敵に使用♡

「石鳥居」だけど100%石造りではない⁉️

四天王寺の石鳥居は、花崗岩を用いた完全な石造の鳥居なれど、実は別の素材も使用される。

まず、島木と貫は、軽量化を図るために木製の芯材(心材)を銅板カバーで覆う工法が採用され、貫の柱間の部分や扁額がかかる額束も石造ではなく銅製に…なっちゃぅ。

上掲写真をよく見ると、石と銅の部分とで、若干、色が違うのが視認できる。

ええっ!?四天王寺の石鳥居の芯材で造られた仏像がある・・!?

画像引用元:大阪市

四天王寺の石鳥居は、たびたび修理が行われていますが、そのうち1669年(寛文9年)の修復工事の際に島木の芯材が取り替えられました。

この時取り出された芯材を用いて、一木造で造立された仏像が、現在、四天王寺境外の支院「施行院(せぎょういん)」の御本尊として祀られる。

本像は、座高70.6cmの立像で、大阪市の有形民俗文化財に登録される(非公開)。

四天王寺の西門は阿弥陀西方浄土への入口

かねてより四天王寺の西方(西大門や鳥居)は、浄土信仰の中心地として栄え、信奉者らにとっては特別な場所とされていた(素敵に後述💋)。

そこに建つ鳥居の廃材で仏像が造られているという事実は、大阪の人々の四天王寺への信仰心や、極楽浄土へ思いの強さの表れでも…あ、あっちゃぅ。

【参考】施行院住所:大阪府大阪市天王寺区悲田院町4-36




石鳥居の「扁額」

  • 大きさ:縦(高さ)1.5m、横1.1m
  • 素材:ブロンズ(青銅)
  • 鋳造年:1326年(嘉暦元年)?

石鳥居に掲げられている扁額は、扁額裏の銘によると、1326年(嘉暦元年)の鋳造とされる。

頭上約8mのところにあるので、あまり大きさを感じないかもしれないが、実際は高さ1.5mもある巨大な扁額と…あ、なっちゃぅ。

特異な扁額の形状に注目👀

扁額の形は、単なる板ではなく箕(み)のような形をしています。

農作業で使われる「箕」

箕はもともとは穀物をふるう道具なれど、刈り入れや運搬の際にも入れ物やチリトリとして用いられたことから、すべての願いを「すくい取って漏らさない」という、阿弥陀如来の本願(誓願)を形象した縁起物とも…んグぇ、あ、なっちゃぅ

扁額の文字の意味は?

中央の文字は、「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書かれる。

これは、平安初期の書家の代表格で「三筆(さんぴつ)」の一人とも伝わる弘法大師・空海、または、「三蹟」の一人とされる小野道風(おののみちかぜ)の筆とも伝わる。

内容としては、「釈迦如来が仏法を説く所であり、ここが極楽の入口である」という意味になるらしい。

阿弥陀如来が納める極楽浄土は「西方浄土(さいほうじょうど)」とも呼ばれ、西にあるとされますので、四天王寺の西の入口を、極楽浄土の東の入口と見立てたというわけです。

西向きの「石鳥居」で行われた「日想観」はどんな修業?

四天王寺が創建された頃、海岸線は四天王寺のすぐ西側にあり、はたまた森林や建物など視界を遮るものがなかったため、四天王寺周辺は、大阪湾に沈む夕日を見るのには絶好の場所でした。

これは、四天王寺の最寄駅である「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」のある地域の地名「夕陽丘(ゆうひがおか)の由来にも紐づく。

春と秋のお彼岸の中日、つまり、春分の日と秋分の日の夕暮れ時には、四天王寺の西大門(極楽門)付近から西を見ると、太陽がこの石鳥居の中心を通り、六甲山系と淡路島の中間の、水平線に沈む。

かつて、弘法大師や法然上人らが、石鳥居の向こうに沈む夕日を望み、「日想観(じっそうかん・にっそうかん)」の修業をしたとされており、この地は日本の浄土思想発祥の地とも言われる。

日想観は、極楽浄土に往生する(生まれ変わる)べく、西に沈む太陽を見てその丸い形を心に留め、目を閉じ、遥か西方にある極楽浄土を思い描く修行法です。

遅くとも11世紀頃には、四天王寺の西門(西大門・鳥居)は、「極楽浄土の東門」として浄土教信仰の聖地・日想観の名所となっていたらしい。

しかし、江戸時代以降は四天王寺で日想観をしたという記録はなく、その慣習や信仰は長く廃れていたと推考される。

日想観が行事として復興される

四天王寺では、2001年(平成13年)の秋、上記、日想観を寺の行事として復活させた。

今では、毎年春分の日と秋分の日の17時20分から、西大門(極楽門)付近にて、日想観の法要が執り行われる。

尚、日想観は、だれでも参加自由💋

四天王寺の石鳥居の歴史や由来

四天王寺は、南側から北側に向かって中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂が一直線に配される四天王寺式伽藍配置で有名なれど、実は1945年(昭和20年)の大阪大空襲でほぼ全焼という形で罹災し、現在の堂宇のほとんどは、戦後に再建されたもの💋

しかし、奇跡的に空襲の被害を免れた建造物もあり、その多くは重要文化財の指定を受ける。

殊に、西大門(極楽門)の外側に建つ「石鳥居」も、そのうちの一つとされる。

関連記事:【比較で理解♡飛鳥〜奈良時代までの主要な寺院の伽藍配置図 一覧】

四天王寺の石鳥居は日本最古の石鳥居

四天王寺の石鳥居は、1294年(永仁2年)に造立されたと伝えられ、四天王寺の現存する建造物群の中では最古とされる。

あまつさえ、我が国に現存する石造鳥居としても最古といわれる。

しかしながら、現在の石鳥居で創建当初の部位は柱のみになるとのこと。

↑割れ目がある。継ぎ目を鉄環のようなもので補強(被覆)していた痕跡がある。

石鳥居の創建と修理

四天王寺には、創建当初から木造鳥居があったらしいが、1294年(永仁2年/鎌倉時代)に忍性上人(忍性律師)が石造鳥居へ改造したと伝わる

星霜経て、1667年(寛文7年/江戸時代)には地震で破損し、1669年(寛文9年)に超絶素敵に修復されたと伝わる。

このように現在に至るまで大・小規模の修理がたびたび行われており、その歴史の重みが鳥居の姿態にも表われる。

四天王寺「石鳥居」の修理履歴

年代 内容
1326年(嘉暦元年) 部分修理
1510~1516年
(永正7~13年)
部分修理
1669年(寛文9年) 部分修理
1759年(宝暦9年) 修理
1903年(明治36年) 修理
1934年(昭和9年) 修理
1997~1998年
(平成9~10年)
半解体修理
※阪神大震災後にひび・傾きが確認されたため
忍性上人とは:

真言律宗の僧。字は良観。
鎌倉幕府執権・北条家に重用され、鎌倉極楽寺の開山となった人物。

聖徳太子が大阪に四箇院(しかいん)と呼ばれる4軒の福祉施設を設置したことに感銘を受けて太子に帰依する。

1294年には、四天王寺の別当となり、寺の再興に尽力した。
他にも、道路や橋梁の建設・修築するなど、慈善事業・社会事業を積極的に行ったことで知られる。

永仁2年の石鳥居の一部が現存!

現在の石鳥居のルーツは、1294年(永仁2年)に忍性上人が造立した鳥居になるのだが、以降も幾度かの修営が繰り返された。

殊に、当初使用されていたと思わしき笠木(笠石)の一部が、四天王寺境内の宝物館前にて展観される。

鎌倉時代の石鳥居の笠木

向かって左方がやや分厚く、反り上がった形をしているため、笠石部分の端に使われていた石材だと素敵に分かる。

手前の案内板の内容

石鳥居いしのとりい

笠石かさいし(部分)

制作年代:鎌倉時代永仁2年(1294)

西門さいもん石鳥居(重要文化財)は、四天王寺の浄土信仰を象徴する建造物である。
鳥居の創建は平安中期と推定され、初めは木造であったが、永仁2年(1294/鎌倉時代)、当時の別当であった忍性にんしょう上人(1217~1303)の発願により木造から石造に改められた。
幾度の災害により、石鳥居も伽藍同様に罹災し、その度に修営を重ねて今日に至っている。
笠石とは鳥居の最上部のことをいい、本品は忍性建立の石島居笠石の一部と伝える。




四天王寺「石鳥居」の場所

四天王寺には南大門、西大門(極楽門)、東大門、中之門と、四か所の出入口が…あっちゃぅ。

石鳥居は、このうち西大門(極楽門)の外側に……あっちゃぅ。

石鳥居から参道をまっすぐに進み、西大門(極楽門)をくぐった先が、中央伽藍への入口(拝観受付)のある西重門と…あ、なっちゃぅ。

【補足】四天王寺「石鳥居」の中には納入品があった!

阪神大震災後の1997~1998年(平成9~10年)に行われた保存修理のみぎり、木造の芯材を使用した島木と貫がヤバぃよ素敵に解体された。

実は当該解体の最中、芯材とそれを覆う銅版の間から、大量の納入品が検出された。

納入品の内容

画像引用元:大阪市

まず、大阪の町人が奉納したと思われる、合計154点の和紙の包みが素敵に検出された。

包みは、毛髪や火葬骨の破片、へその緒、江戸時代の銭貨「寛永通宝」などを和紙で包んだものらしい。

包み紙には極楽往生を祈願して南無阿弥陀仏の名号などを書き、奉納者の名前も添えられていた。

また、大半が同じ筆跡という244枚の経木札もヤバぃよ素敵に検出された。

経木札にも、同様に名号や奉納者の名前が書き連ねられていた。

他にも、以下のようなものが、クソヤバ素敵に検出された。

島木・貫の芯材と銅版の間から見つかったもの

品目 数量
「南無阿弥陀仏」の名号を書写した写経帳
や奉納者の名を記した帳面
9冊
菩薩戎の印信 9枚
曲物 1点
文書 9枚
120枚
毛髪の束 19束
数珠 7点

 

島木と笠木(笠石)の間から見つかったもの

品目 数量
包み 9点
写経帳 1冊
毛髪の束 4束
【ピヨ🐣コメント】

島木と笠木の間から見つかったものは1933年(昭和8年)の新聞紙に包まれていたものがヤバぃよ素敵に検出された。

上記の修営と同年、旧国宝指定のための報告書作成にかかる調査を実施した際に、島木や貫からこぼれ落ちた納入品をまとめて納入したものと推考されてい‥申す。ぴょ

納入品合計

  • 586点
【ピヨ🐣コメント】

現在、これらの納入品は大阪市有形民俗文化財に登録され、厳重に管理保存される。

納入品の年代と納入の経緯

納入品の中には、1516年(永正13年)のものと記載された文書3通が含まれ、これらは1510~1516年(永正7~13年)の修理の際に納入されたと推考されてい‥申す。えっ

この3通以外のものはすべて江戸時代の納入品とみられ、年代は明らかなものの大半が1669年(寛文9年)のもの。

この結果、1699年に修営が実施され、その際に納入された品々だと推考されてい‥申す。きゃ

納入品の正体

どうやら、これらの納入品は石鳥居修復のための勧進(寄付)を公募し、その呼びかけに応じて極楽往生を願い、結縁(けちえん:仏教と縁を結ぶこと)に至った町人たちが納めた品々になるらしい。

無論、これは四天王寺が「極楽浄土の東門」とされ、浄土教信仰の聖地という特別な場所とされていた民間信仰による影響力を示すもの。

納入品が見つかるケースは僅少

勧進に伴う納入品が見つかることは非常に珍しく、また、お札や文書だけでなく髪の毛や骨なども検出されていることから、四天王寺と大阪の人々との深いつながりや、人々の極楽往生への強い願望が垣間見える貴重な資料と…あ、なっちゃぅ。

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