【大阪 四天王寺の境内見どころ】案内図から想定する回り方(参拝方法)や観光所要時間を…お知る?

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こちらのページでは、聖徳太子が創建し、約1400年の歴史を持つ、大阪・四天王寺の境内の見どころや回り方をご紹介します。

四天王寺の境内は広大で見どころがたくさんあります。

中心伽藍の拝観だけで終わりにせずに、あなたの願い事や興味に合わせて、他のお堂も参拝してみてください。

四天王寺の境内図(地図)

「四天王寺式伽藍配置」とは?

四天王寺の中心伽藍は、「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれています。

四天王寺式伽藍配置は、南側から北側に向かい、中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂が一直線に配され、それらを回廊が囲んでいるのが特徴で、中国や朝鮮半島の寺院の様式を汲んだものと考えられる、日本の飛鳥時代の代表的な伽藍配置の一つです。

現存する四天王式伽藍配置の寺院はあまりありませんが、四天王寺と同じく聖徳太子が創建した、奈良の法隆寺の創建当初の西伽藍(若草伽藍)も、かつては四天王寺式伽藍配置だったと考えられています。

創建以降、何度か再建されながらも保たれてきた四天王寺の中心伽藍や周辺の堂宇は、1945年(昭和20年)の大阪大空襲でほぼ全焼という大きな被害を受けましたが、1963年(昭和38年)以降、中心伽藍を皮切りに、次々と再建され、今に至っています。

石鳥居(石ノ鳥居)、六時堂、五智光院、元三大師堂、湯屋方丈など、空襲の被害を免れ、江戸時代の再建時の姿を留めているものについては、その多くが重要文化財に指定されています。




四天王寺の拝観所要時間と回り方(参拝方法)

四天王寺の拝観所要時間

四天王寺の境内の面積は、約33,000坪(約11万㎡)で、これは甲子園球場総面積(約38,500㎡)の約3倍という広さです。

四天王寺のホームページによりますと、中心伽藍+宝物館が約40分、本坊庭園が約20分、つまり有料エリアだけで約1時間ということです。

ただ、実際は、それ以外の堂宇を完全に無視して歩くわけではない場合がほとんどでしょうから、境内を1周するのであれば、もう少し時間をかけて見ている人が多いようです。

有料エリアだけなら1時間半、それ以外もゆっくり見るなら、休憩所で一息つきながら、2~3時間かけて散策してみてはいかがでしょうか。

一度に全部見ようとすると1日がかりになるので、時間が限られている場合は、以下にご紹介する見どころを参考に、見たい場所をいくつか決めておくと良いでしょう。

休憩所などで境内図をもらえますので、道に迷う心配はありません!

四天王寺の回り方(参拝方法)

四天王寺に、正しい参拝順序というものは特になく、目的に合わせて、参拝したいお堂から行けば良いことになっています。

まず、南大門や石鳥居から境内に入ったら、西重門から中心伽藍に入り、四天王寺の中核である金堂にお参りするのが良いでしょう。

それから、回廊外に出て、時計回りに境内を巡ってみてはいかがでしょうか。

四天王寺の回り方(例)

南大門

中心伽藍

西大門(極楽門)

元三大師堂

六時堂・石舞台

本坊・庭園

亀井堂

南鐘堂

四天王寺の拝観時間・拝観料などについては、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。

四天王寺(大阪)の「拝観時間(開門時間・閉門時間)・拝観料(入場料)・割引・祈祷(祈願)の受付時間と料金・アクセス・駐車場など」

四天王寺の見どころ(1)中心伽藍

中心伽藍は空襲による焼失後に再建されたもので、1963年(昭和38年)に落成法要が行われています。

鉄筋コンクリート造の建物群ですが、創建当初の配置および建築様式に近づけて建立されています。

それぞれの堂宇の本尊も昭和期のもので、古刹の仏像としては真新しい印象を受けます。

中門(仁王門)

中門(ちゅうもん)は、中心伽藍の南側にある、金堂への正面口です。

入母屋造ですが、屋根の上部と下部で段差のある錣屋根(しころやね)となっています。

四天王寺では、中門の他、金堂と講堂も錣屋根です。

「脇の間」と呼ばれるスペースには、伽藍の守護神である金剛力士像(仁王像)が祀られています。

この金剛力士像は、著名な仏師、松久朋琳・宗琳の代表作です。

なお、中心伽藍の拝観受付は、中門ではなく西重門にあります。

五重塔

四天王寺のシンボルとも言うべき五重塔は、創建以来、7回の建て直しを経ており、現在のものは、戦後の1959年(昭和34年)に再建された8代目の五重塔です。

2か所あるうち北側の入口は開放されており、螺旋階段で上層部まで上り、内部に納められた舎利塔を拝むことができます。

南正面には釈迦三尊の壁画と四天王の木像が祀られています。

なお、五重塔には、聖徳太子が四天王寺を創建した際に、塔の心柱の中に仏舎利6粒と自らの髻髪(きっぱつ)6毛を納めたという伝承が残っています。

金堂

御本尊

  • 救世観音菩薩像

金堂は、四天王寺の中心的なお堂で、四天王寺の本尊であり、聖徳太子の本地仏とされる秘仏・救世観音菩薩像と、四方を守護する四天王像を祀っています。

また、壁面には中村岳陵筆の壁画「仏伝図」があります。

屋根は上下二重の入母屋屋根で、上層は中門と同じ錣葺(しころぶき)となっています。

金堂の地下にある青竜池から「白石玉出の水」と呼ばれる霊水が湧き出ており、この水を境内の亀井堂に引いていると伝えられています。




講堂

御本尊

  • 夏堂:阿弥陀如来坐像
  • 冬堂:十一面観音立像

講堂は僧侶が説教・講話などを行う建物です。

入母屋造・錣葺・単層の建物で、内部は西側の「夏堂(げどう)」、東側の「冬堂(とうどう)」に分かれた構造となっています。

このうち夏堂の御本尊・阿弥陀如来坐像は、中門の金剛力士像と同じ、松久朋琳・宗琳の作品で、高さが約6mあり、「昭和の丈六(じょうろく)仏」とも呼ばれています。

阿弥陀如来は死後の極楽往生を約束する仏、十一面観音は人々を現生の苦しみから救う仏ということで、現世から来世まで、人々をお導きいただくようにという願いが込められています。

内壁には、日本画家・郷倉千靭(ごうくらせんじん)により、仏教東漸(とうぜん)が描かれています。

正面扉は閉まっていますが、左右から入堂できます。

仏教東漸とは:

東漸とは、物事がしだいに東に広がり、伝わることです。
インドで生まれた仏教が、東南アジアや中国、朝鮮を経て、日本に伝播する様子が、「仏教東漸」です。

丈六とは:

仏像の高さの基準の1つで、1丈6尺(約4.85m)のことを指します。これは、釈迦の身長が1丈6尺だったことに由来しています。

四天王寺講堂の阿弥陀如来坐像については、像高が約6mもある上、そもそも坐像なので、丈六像とするのであれば半分の高さで造るのが普通で、一般的な意味での丈六仏(像)ではありませんが、「丈六くらいある大きな像」という意味なのでしょう。

四天王寺の見どころ(2)中央伽藍外のお堂

四天王寺には、中心伽藍以外にも多数のお堂があり、それぞれに御本尊が祀られています。

個性亭な仏像や興味深い背景を持つお堂もありますので、ぜひ、じっくりと散策してみてください。

六時礼讃堂(六時堂)【重要文化財】

御本尊

  • 薬師如来坐像

中心伽藍の真後ろに位置する大きなお堂で、1日6回の諸礼讃を行うことから、六時礼讃堂(ろくじらいさんどう)と名付けられ、「六時堂」と呼ばれています。

境内のほとんどを空襲で焼失した四天王寺の中でも戦火を免れた、1623年(元和9年)建立の建物の1つで、重要文化財に指定されています。

六時堂では修正会などの大法要の他、日々のご供養も営まれます。

内部にはご本尊・薬師如来像の他、四天王像が安置され、入口には賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)像やおもかる地蔵が祀られています。

亀井堂

御本尊

  • 馬頭観音像、地蔵菩薩像

亀井堂は空襲で焼失した後、1955年(昭和30年)に再建されました。

前述のように、亀井堂の霊水は金堂の地下から湧き出る「白石玉出の水」だとされており、石造の亀の口から水瓶に注がれています。

ご供養の後、この水に経木を流すと、極楽往生できると言われています。

内部は西側を「亀井の間」、東側を「影向(ようごう)の間」と呼び、左右に馬頭観音像と地蔵菩薩像を祀っています。

また、堂内中央には、昔、聖徳太子が井戸に姿を映し、楊枝で自画像を描いたという伝承にちなんだ、楊枝の御影が安置されています。

影向とは:

神や仏が現れること。「ようごう」または「えいこう」と読みます。

亀井不動尊

御本尊

  • 水掛け不動尊像

亀井不動尊は、593年(推古元年)の創建と伝わり、空襲による焼失後、1933年(昭和30年)に再建されました。

本尊・水掛け不動尊像は全身を苔に覆われた小さな石像で、左右には子育地蔵尊像、延命地蔵尊像が祀られています。

聖徳太子が尊い声に呼び止められて亀井の井戸を覗くと、その水面に不動明王の姿が映っていたため、不動尊を祀ったのが起源と伝えられています。

近畿三十六不動尊霊場の第一番札所となっています。

阿弥陀堂

御本尊

  • 阿弥陀三尊像

南大門から見て中心伽藍の左手前に位置する現在の阿弥陀堂は、1953年(昭和28年)に四天王寺の末寺・三重県国束寺(くずかじ)から本堂を移築したものです。

隣の小さなお堂は、納骨前のお骨を仮安置する納骨堂で、こちらも国束寺から移築されました。

どちらも阿弥陀如来像を本尊としています。

阿弥陀堂は、葬式の式場としても利用されます。




万燈院

御本尊

  • 十一面観世音菩薩像

万燈院(まんとういん)には、御本尊の十一面観世音菩薩像などの他に紙衣仏(かみこぶつ)を祀るお堂で、「紙衣堂」とも呼ばれています。

紙衣仏とは、読んで字のごとく、紙でできた衣を着た仏さまのことで、難病に侵されながらも紙の衣を着て修行したという羅漢さまをモデルにしています。

そのため、病気回復にご利益があるとされ、10月10日の衣替え法要には多くの人が訪れ、たいへん賑わいます。

お堂の入口には木槌と木臼があり、痛い所をさすると病が治るとされています。

見真堂

御本尊

  • 阿弥陀如来像

境内西側の極楽門の手前にある見真堂(けんしんどう)は、浄土真宗の祖・親鸞聖人(見真大師)の功績を称え、祀るために建立されたお堂です。

内部には、本尊・阿弥陀如来像の他、聖徳太子像が安置され、左には「六字名号(ろくじみょうごう・南無阿弥陀仏)」の掛け軸がかかります。

お堂の名前にもなっている親鸞聖人はと言いますと、建物の横に像が建立されています。

四天王寺は和宗の寺院ですが、この見真堂には、多くの真言宗の信者・関係者が参拝に訪れます。

大師堂

大師堂は、大師は大師でも真言宗の開祖・弘法大師(空海)をお祀りするお堂です。

弘法大師は、若いころに、四天王寺の西大門(極楽門)で日想観(じっそうかん・にっそうかん)の修行をしたと伝えられ、大師堂の北側には、「弘法大師修業像」が祀られています。

この像の周りの砂は、四国八十八ヶ所霊場の砂を集めたもので、「お砂踏み場」となっており、大師堂で申し込めば1回300円で「お砂踏み」を体験できます。

お砂踏みをすると、四国八十八ヶ所を巡礼したのを同じご利益があるとされ、1時間ほどかけて踏んでいく人が多いということです。

  • お砂踏みの申込時間:8時30分~15時30分
日想観とは:

死後、極楽浄土に行くための修行の1つ。西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留め、遥か西方にある極楽浄土を思い描く修行法。

布袋堂

 

御本尊

  • 布袋尊像(なでほてい尊・乳布袋尊)

「乳のおんばさん」「乳布袋」として親しまれているお堂で、お乳が良く出るように、あるいは、子どもが健康に育つようにといった、乳に関する願いや悩みを持つ、多くの女性が参拝しています。

布袋さまと乳との関係はよくわかっていないそうですが、一説には聖徳太子の乳母を祀ったことと、布袋さまの豊かな乳房とが結び付けられた信仰と言われています。

乳布袋と呼ばれる像は、お堂の中に安置されています。

表にお祀りされている布袋尊像は、「なでほてい尊」と呼ばれ、撫でてお参りします。

お腹は招福、担がれた「黄金袋」は財運向上、手に握られたひょうたんは所願(諸願)成就のご利益があるそうです。

布袋堂は、「大阪七福神」の札所となっています。

元三大師堂【重要文化財】

御本尊

  • 元三大師像

元三大師(がんざんだいし)とは、第18代天台座主で、叡山中興の祖、そして、おみくじの生みの親と言われる、慈恵大師良源のことです。

元三大師堂は、1618年(元和4年)に建立された寄棟造の建物で、重要文化財に指定されています。

現在は、元三大師像の他、弘法大師像、文殊菩薩像、普賢菩薩像、如意輪観世音菩薩像、不動明王像を安置しています。

学業成就・試験合格のご利益があるとされ、毎月3日の例月祭や、1月3日の「新春合格祈願護摩供」の際には、多くの受験生やその家族が参拝に訪れます。

お堂前の「ちえの輪」をくぐって参拝します。




地蔵山(地蔵堂)

御本尊

  • 地蔵菩薩像(立江地蔵尊)

明治時代に、近郊地域や境内各所から集めた有縁・無縁のお地蔵さまを、小さな丘に合祀したのが、地蔵山(じぞうやま)の始まりとされ、現在はお堂が建立されています。

周辺には、色々な名称の地蔵像が祀られています。

本尊・立江地蔵尊は、古くから、眼病に霊験があるとされています。

大黒堂

御本尊

  • 三面大黒天像

大黒堂は、その名の通り、大黒さまを祀るお堂ですが、その御本尊のお姿はたいへん個性的です。

なんと、1体の像に大黒天、毘沙門天、弁才天の顔がある、「三面大黒天」と呼ばれる像なのです。

したがって、商売繁盛、福徳円満、子孫繁栄(縁結び)など、多岐に渡るご利益が期待できるとして、庶民の間で篤く信仰されてきました。




英霊堂

御本尊

  • 阿弥陀如来像

英霊堂は、1906年(明治39年)に建立された鐘堂で、「大釣鐘堂」と呼ばれていました。

当時、世界一大きかったという大梵鐘(ぼんしょう)が釣られていましたが、残念ながら、戦中の金属類回収令により供出されてしまいました。

このような歴史を持つことから、戦後は、戦没者の英霊を祀るお堂となり、英霊堂と改名されています。

亀遊嶋辯天堂

御本尊

  • 亀遊嶋辯才天像

亀遊嶋辯天堂(きゆうじまべんてんどう)は、境内東側の池の島に建つ、二層の屋根が特徴的な六角堂です。

名称は、お堂の姿を、池に遊ぶ亀の甲羅に見立てて名付けられたのではないかと言われています。

御本尊は、八臂(はっぴ)、つまり8本の手を持つ、神秘的なお姿の辯才天(弁才天・弁財天)像で智恵弁才、福徳円満、子孫繁栄などのご利益があるとされています。

北鐘堂

御本尊

  • 阿弥陀如来像

北鐘堂(きたがねどう)は、正式名称を「黄鐘楼(おうしょうろう)」と言います。

中心伽藍の左(西)後ろ側に、右(東)の太鼓楼と対となるように建立されています。

北鐘堂の鐘の音は極楽浄土まで響くと伝えられ、日々、先祖供養のために多くの人が鐘を鳴らしていきます。

ただし、こちらの鐘は天井裏にあり、綱を引いてつくようになっているため、鐘自体を見ることはできません。

太鼓楼

御本尊

  • 虚空蔵菩薩像

太鼓楼(たいほうろう)は、もともと、時刻を知らせる太鼓(時太鼓・時の太鼓)を鳴らすお堂でしたが、再建の際に北鐘堂を同じ黄鐘調(おうしきちょう)の鐘が設置されました。

普段は閉まっていますが、毎月21日には開堂されます。

御本尊の虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)は、虚空(宇宙)のように広大な知恵と慈悲を有する仏さまです。

毎年4月いっぱいは、太鼓楼にて十三まいりの法要が営まれ、前厄・後厄も含め、かぞえ年で13歳前後のお子さんやご家族が、今後の人生で知恵、福徳、健康などを授かれるよう、祈願しに訪れます。




南鐘堂

御本尊

  • 阿弥陀如来像

南鐘堂(みなみがねどう)の正式名称は、「鯨鐘楼(げいしょうろう)」と言います。

聖徳太子の御霊を引導鐘(いんどうがね)と呼ばれる鐘の音によって慰めるための回向所でもあり、「太子引導鐘堂」とも呼ばれています。

外壁は八角形、堂内は円形の、個性的な造りのお堂で、鐘は北側の2つが黄鐘調であるのに対し、南鐘堂のものは盤渉調(ばんしきちょう)となっています。

北鐘堂の黄鐘調の音は「陽春の音」、南鐘堂の盤渉調の音は「秋の幽寂の響き」と称されます。

通常、どなたでも鐘をつくことができます。

黄鐘調・盤渉調とは

黄鐘調・盤渉調とは、雅楽の「六調子」の一種です。調子とは、洋楽で言う「ハ長調」「ト長調」の「調」のようなものです。
黄鐘調は「黄鐘」と呼ばれる音を、盤渉調は「盤渉」と呼ばれる音を基調とする旋律です。鐘の音の場合は旋律とはいきませんが、両方聞いてみると、音色の違いがわかるでしょう。

なお、以上の3つの鐘堂では、大晦日に、除夜の鐘をつくことができます。

四天王寺の除夜の鐘と初詣については、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。

四天王寺(大阪)の「除夜の鐘」と初詣(正月)ってどんな感じ?「営業時間(参拝時間)・混雑・交通規制・駐車場・屋台情報など」




太子殿・太子奥殿

御本尊

  • 南無仏太子二歳像など

太子殿(たいしでん)と太子奥殿(たいしおくでん)は、中心伽藍の東側に位置しています。

太子殿(前殿)は、聖徳太子を祀るお堂で、正式名称は「聖霊院(しょうりょういん)」と言います。

1954年(昭和29年)建立の入母屋造の建物で、南無仏太子二歳像や、秘仏の太子十六歳像(太子孝養像)四天王像を祀ります。

太子殿と渡り廊下で繋がる太子奥殿は、1979年(昭和54年)建立で、壁面が完全に円形となっているのが特徴の建物です。

内部には、1月22日のみ公開される太子四十九歳像(太子摂政像)が祀られています。

毎年2月22日の「太子二歳まいり」の祈祷には、多くのご家族が参列し、知恵が授けられるよう、お子さんの頭に宝印をもらいます。

なお、中心伽藍が鉄筋コンクリート造なのに対し、太子殿・太子奥殿とその周辺の建物は木造建築となっています。

経堂・絵堂

経堂(きょうどう)と絵堂(えどう)は、太子奥殿の後ろにあります。

経堂には、『勝鬘経』『維摩経』『法華経』の三経、その注釈 「三経義疏」などが納められています。

通常は閉堂していますが、10月22日の経供養の際には開堂します。

太子奥殿の左奥に経堂が見えます。

絵堂は、1983年(昭和58年)に完成したお堂で、洋画家・イラストレーターの杉本健吉により6年を費やして制作・奉納された「聖徳太子御絵伝障壁画」を、礼拝対象として安置しています。

太子奥殿の右奥が絵堂です。

こちらも通常は非公開で、毎月22日のみ、開堂します。

現在のお堂と壁画は昭和期のものですが、絵伝を見て絵解を聞き、聖徳太子の生涯に触れるということは、昔から行われていたと言われています。

絵解とは:

社寺の縁起や祖師の伝記・説話を描いた仏教絵画の解説。僧侶や、絵解を生業とする芸能者が絵解の語り役を務めました。

番匠堂

御本尊

  • 曲尺太子像

番匠堂(ばんしょうどう)は、中心伽藍の東隣にある小さなお堂です。

番匠とは、聖徳太子の時代、朝鮮半島から招かれた名工たちのことで、大陸の高度な建築技術を、日本に伝えました。

聖徳太子は、その番匠たちを積極的に招き入れたということで、大工・建築技術の向上、工事の無事安全を願う人々の間で、大工技術の始祖としてお祀りされるようになったということです。

厨子の中には、曲尺(かねじゃく)を手に持った「曲尺太子像」が祀られており、毎月22日のみ公開されます。




牛王尊(石神堂)

牛王尊(ごおうぞん)は、593年(推古元年)の創建と伝わっています。

牛王尊とは、四天王寺建立の際、建築資材を運搬した牛が、伽藍が完成した途端に化けたと伝えられる「石神」で、こちらには、その言い伝えにちなみ、巨石が安置されています。

後世、牛は草を食べることから、転じて「子供の顔にできる草(できもの・腫れ物)をとってくれる」という信仰が生まれ、絵馬を奉納すると病気平癒のご利益があるとされています。

庚申堂 ※飛び地

御本尊

  • 青面金剛童子像

庚申堂(こうしんどう)は、四天王寺の南大門から南に300mほどの場所にあり、日本で最初に庚申尊が出現した地と伝えられ、京都の八坂庚申堂、東京の入谷庚申堂(現存せず)と並び、日本三庚申の1つに数えられています。

701年(大宝元年)に豪範(ごうはん)僧都が創建し、豊臣秀頼によって再建された後、大阪大空襲で焼失し、現在のお堂は大阪万博で全日本仏教会が休憩所として建築した「法輪閣」が寄進・移築されたものです。

堂内には秘仏・青面金剛童子像と四天王像が祀られており、除災無病のご利益があるとされています。

創建以来、庚申の日やその前日(宵庚申)に参拝すれば、必ず願いが聞き届けられると言われ、現在も縁日にはたいへん賑わいます。




四天王寺の見どころ(3)本坊周辺

本坊は境内の北東側にあり、戦火を免れた重要文化財の建物や「極楽浄土の庭」として有名な庭園を有します。

庭園は、中心伽藍とは別に拝観料が必要です。

本坊庭園の拝観受付

五智光院【重要文化財】

御本尊

  • 五智如来像

五智光院(ごちこういん)は、1623年(元和9年)に、徳川家忠によって再建された入母屋造の建物で、重要文化財に指定されています。

徳川家代々の位牌を納めていることから、御霊舎(みたまや)とも呼ばれていました。

もともとは西大門の近くにありましたが、1901年(明治34年)、本坊内の現在の場所に移築されました。

堂内には、大日如来を本尊(中心)とする五仏「五智如来」の像が安置されています。

五智とは、密教の教えにある5つの智慧のことで、具体的には、以下の5種類だということです。

五智とは
  • 法界体性智:法界(宇宙・世界)のあるべき姿を明確に見抜く智慧
  • 大円鏡智:すべてを映し出す鏡のように、世界のあらゆることの姿をはっきりとさせる智慧
  • 平等性智:有形無形のすべてのものは平等で無差別であることを、具体的な形に表す智慧
  • 妙観察智:すべてものごとの真実の姿を正しく観察し、追い求める知恵
  • 成所作智:自分及び他人がなすべきことを完成させる知恵

五智如来とは、これらの「智」をそれぞれ如来に当てはめたもので、大日如来の他、阿閦如来、宝生如来、観自在王如来(阿弥陀如来)、不空成就如来として表されます。

湯屋方丈(本坊方丈)【重要文化財】

1623年(元和9年)、徳川秀忠によって再建された建物で、西通用門と共に重要文化財に指定されています。

本坊は四天王寺の寺務所で、方丈は住職の居室にあたり、徳川家康の側近としても知られる天海大僧正(てんかいだいそうじょう)が、四天王寺執務の時に、在住したと伝えられています。

本坊庭園

本坊の庭園は、座視式の前庭「補陀落の庭」と、その奥の池泉回遊式庭園「極楽浄土の庭」から成ります。

現存する庭園は、江戸時代初期に造園された後、火災により焼失し、明治時代初期に復興されたものです。

特に極楽浄土の庭は有名で、自然のわき水を利用した2つの小川「水の河」と「火の河」、そして2つの池「瑠璃光の池」と「極楽の池」を配し、白砂の回遊路を備えています。

本坊庭園には、登録有形文化財のあずまや「八角亭」や、松下幸之助によって寄進された「和松庵」を始めとする4棟の茶屋などがあります。

池泉回遊式庭園とは:

中央に池を配し、周囲に回遊路を設け、歩きながら景色を楽しめる造園方法の庭。




四天王寺の見どころ(4)その他の建造物・史跡

石舞台【重要文化財】

六時堂前の「亀の池」に架かる石橋に組まれた石舞台は、毎年4月22日の聖徳太子の命日法要「聖霊会舞楽大法要」の際に奉納される舞楽の舞台となります。

四天王寺の石舞台は、住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台と共に「日本三舞台」の一つとされ、重要文化財に指定されています。

聖霊会は、国の重要無形民俗文化財の指定を受ける、四天王寺でもっとも盛大な法要で、古式ゆかしい舞楽は必見です。

石鳥居【重要文化財】

西大門(極楽門)の更に西側(外側)に建つ石鳥居は、鎌倉時代の1294年(永仁2年)、それまであった木造鳥居を、忍性(にんしょう)上人が石造鳥居に取り替えたもので、神仏習合の名残が感じられる場所です。

扁額にある「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」とは、「釈迦如来が仏法を説く所であり、ここが極楽の入口である」という意味です。

よく見ると単なる板ではなく箕(み)の形をした扁額で、チリトリのようにすべての願いをすくい取って漏らさないという、阿弥陀如来の本願(誓願)を表しているとされています。

この石鳥居や西大門は、極楽浄土への「東門」に見立てられ、西の海に沈む夕日を見て極楽を思う聖地でした。

忍性上人とは:

真言律宗の僧。字は良観。鎌倉執権・北条家に重く用いられ、鎌倉極楽寺の開山となりました。

聖徳太子が大阪に四箇院(しかいん)と呼ばれる4軒の福祉施設を設置したことに感銘を受け、1294年に四天王寺の別当となってからはそれらの再興に勤めました。

他にも、道路や橋を建設・修築するなど、慈善事業・社会事業を積極的に行ったことで知られています。




西大門(極楽門)

西大門(さいだいもん)は、上述の通り、四天王寺の西側は極楽浄土への東の入口ということで、通称「極楽門」として親しまれています。

593年(推古元年)の創建と伝わりますが、戦火で礎石を残すのみとなった後、1962年(昭和37年)、松下電器産業(現在のパナソニク)の創業者・松下幸之助の寄進によって再建されました。

門の内部の壁には、漆芸家・番浦省吾(ばんうらしょうご)作の「武庫(ぶこ)山越の阿弥陀如来」、「釈迦如来と十大弟子」、「観音菩薩」、「勢至菩薩」が描かれています。

門柱には「転法輪(てんぼうりん・法輪)」があり、参詣者はこれを回転させることにより、「洗心」の功徳を積むことができるとされています。

法輪

3月の春季彼岸会と、9月の秋季彼岸会の中日には、西に沈む太陽を拝む「日想観」が行われます。

転法輪とは:

転輪聖王(てんりんじょうおう・古代インドの理想の王を示す概念)が「法輪」という車輪のような形の武器を使って敵を降伏させたことになぞらえ、釈迦如来が仏法という武器(法輪)で人々の過ちや煩悩を打ち砕くさまを表現した言葉。釈迦の教え(法)が、「転」じて(車輪が転がるように)、人々へ広まる様子を言います。

法輪は仏教のシンボルでもあり、輪の中に放射状に伸びる8本のラインは、仏教の教えを「八方向」に広めるという意味を持ちます。

洗心とは:

心を洗い清め、けがれを消し去ること。

南大門

南大門は、四天王寺の正門で、現在の門は1985年(昭和60年)に再建されたものです。

内部には熊野権現礼拝石(くまのごんげんらいはいせき)が祀られています。

熊野詣に向かう際は、まずここから大阪の南に位置する熊野を遥拝し、安全祈願を行ったのだと言われています。

短声堂引声堂跡

かつて、石鳥居と西大門の間に、「念仏三昧院」、「念仏堂」と呼ばれる2つのお堂がありました。

1185年(文治元年)には、法然上人が参詣し、念仏を唱えて日想観の修行を行ったと伝えられています。

これが江戸時代の1617年(元和3年)に再建され、「短声堂(たんせいどう)」、「引声堂(いんぜいどう)」と呼ばれるようになったようですが、空襲で焼失した後再建されず、現在は、入口の跡のみが残されています。

法然上人二十五霊場の札所となっていますが、団体参拝の勤行は阿弥陀堂で行われ、阿弥陀堂が霊場として扱われることもあります。

宝物館

四天王寺の宝物館は、2012年にリニューアルオープンしました。

寺の規模からすると、こぢんまりとした印象を受けますが、国宝・重要文化財を含む500点余りの寺宝を収蔵・展示しており、聖徳太子信仰や仏教の歴史について現物を見ながら学ぶことができますので、ぜひ、お立ち寄りください。

季節によっては企画展も開催されます。

宝物館の拝観時間は、お堂の拝観時間と同じですが、入館の最終受付は、閉館時間の20分前です。

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