綱敷天神社は、新御堂筋から東へ200mほど行った場所にあります。周りは“オトナ”なお店が建ち並んでいますが、綱敷天神社自体は由緒ある神社です。
今回は大阪キタの鎮守社綱敷天神社(つなしきてんじんしゃ)の由緒と歴史についてご紹介してい‥‥‥申す。ガヒャっ
まず‥「梅田」の地名の由来って知ってる??
NTTドコモ・阪急交通社・グンゼ・毎日新聞などの大企業が集まる場所であると同時に、西日本最大の繁華街として知られている梅田。梅田に訪れて最初に見るのは、多くのビルディングです。
しかし“梅”田と名乗っているにも関わらず、梅の木は1本も見当たりません。梅の「う」の文字もないのに、なぜ「梅田」と呼ばれているのでしょうか?
埋田が→梅田になった説
かつて大阪キタの一帯は現在では到底、信じられませんが、田畑が広がっていたのです。
しかし現在の十三から梅田に向かう途中に位置する淀川が、たびたび氾濫を起こすことから川の周辺を埋め立てたことから、後に「埋田」と呼ばれはじます。
江戸時代になると「埋」では、田舎臭く泥臭いというイメージから、美化して愛称から→敬称する目的で現今の「梅田」に変更されます。
実はこのとき「梅田」という地名の由来になった場所こそが、今回紹介する綱敷天神社です。
梅が多かった=梅田とされた説
そのほか、かつての太融寺周辺を中心とした界隈には梅塚があったとされており、菅公が太宰府までの途上、大阪・太融寺に参拝した折、ちょうど当神社の鎮座地あたりに生えていた枝ぶりの良い梅に目が行き、思わず、乗っていた船の艫綱(船と陸とを結ぶ綱)をたぐりよせたそうです。
菅公は、そのたぐり寄せた綱を円座状に敷いて座布団とし、しばし腰を下ろし、梅をご観賞されたという故事が残されています。
後にこの故事が由来となって「綱敷天神社」の社名の成立につながったとのことです。
綱敷天神社の拝殿
綱敷天神社には、菅原道真と嵯峨天皇が、御祭神として祀られています。
822年(弘仁13年)に、嵯峨天皇は兎我野(とがの)へ訪れました。兎我野とは東梅田付近にある、兎我野町のことでしょう。兎我野へ向かった理由は本人に聞かなければわかりませんが、おそらく太融寺に関係しているのかと思われます。
太融寺が建てられたのは821年(弘仁12年)で、嵯峨天皇が兎我野に行幸する1年前のことです。
新しくできた太融寺がどんなものかと、様子を伺っていたのかもしれません。
今でこそ意味深なホテルやお店が建ち並ぶ場所ではありますが、嵯峨天皇が来られた当時の兎我野は何もない自然豊かな場所です。
国のトップである天皇を野宿させるわけにはいきません。
そこで近くの「神山」で簡易宿所みたいなところをこしらえて宿泊した場所こそが、現在の綱敷天神社です。
本殿
本殿の直ぐ側にあるのは、アジアン雑貨で有名なチャイハネです。
歴史深い建物とトレンドファッションが同じ空間にある風景は、梅田だからこそと言えるかもしれません。
綱敷天神社が創建されたのは、843年(承和10年)でした。
「822年に嵯峨天皇が綱敷天神社に宿泊した」という話では、矛盾が出ます。年号の矛盾を正す鍵となるのは、源融(みなもとのとおる)と「神山」という地名です。
綱敷天神社の住所は、大阪市北区神山町です。
現在は山の「や」の文字も見かけませんが、かつて小山がありました。
小山には仮殿(簡易宿泊所のようなもの)が設けられており、嵯峨天皇が宿泊したと伝えられております。
嵯峨天皇が崩御した後、仮殿があった場所に神社を創建した人物こそが嵯峨天皇の息子である源融です。
紫式部が手掛けた「源氏物語」の主人公、光源氏のモデルになった人物と言われています。
なお源融が神社を創建した当時の名前は「神野神宮」であり、「綱敷天神社」ではありません。
「綱敷天神社」と呼ばれるようになるのは、もう1人の御祭神である菅原道真が関係しております。
撫牛(なでうし)
綱敷天神社には、面構えが立派な牛の像がございます。
牛の像は菅原道真が祀られている神社に行けば、必ず見ることができます。
綱敷天神社(当時の神野神宮)は、菅原道真が訪れた場所です。
目的は神社参拝ではなく、九州へ向かう途中で立ち寄っただけのことです。
「九州」と「菅原道真」のワードで、歴史に詳しい人ならピンと来たでしょう。
無実の罪により菅原道真は、京の都を追い出されてしまいました。
現代なら京都駅から新幹線に乗れば、九州に到着です。でも菅原道真の時代に、新幹線なんて通っている訳がありません。
しかも当時の菅原道真の身分は、罪人です。
仮に新幹線が当時から開業していたとしても、乗ることすら許されなかったでしょう。
となると九州まで行く方法として残されているのが、徒歩の移動。途中で腰をおろして休みたくなるのは、当然のことです。
菅原道真が休んだとされる場所こそが、神野神宮・つまり綱敷天神社だったという訳です。
菅原道真に縁ある場所だったため、御祭神として祀られています。
白龍社
牛の像の横にあるのが、白竜社です。御祭神は白龍大神(はくりゅうおおかみ)と猿田彦大神(さるたひこおおかみ)です。
家屋の守り神・水神・方除けのご利益があります。
白龍大神について
家屋の守り神になってくれるのが白龍大神で、元は中国の神様でした。中国の神様が日本の神社で祀られている理由は、ナーガが関係しているのでしょう。
ナーガはインドの神様で、姿形はコブラに似ています。
ナーガがインドから中国へ渡った際、ナーガは「竜」として伝わりました。中国にも蛇はいましたが、コブラは存在しておりません。
中国にないものをどうやって中国語に訳せば良いのか、ひねり出した答えこそが「竜」だったのです。
蛇が竜になった中国の神様は、やがて日本へと渡りました。
そして「白龍」として崇められ、家を守る神様になったのです。※諸説あり
猿田彦大神について
猿田彦大神は、天狗のモデルになったと言われている神様です。
方除け(縁起が悪い場所に行きついてしまった厄を落とすこと)のご利益がございます。
また道案内の神様でもあるので、不思議のダンジョン梅田攻略のために参拝してみてはいかがでしょうか。
従軍記念碑
明治27年~明治28年、日本と清国(現在の中国)とで日清戦争が勃発。綱敷天神社の氏子からも、何人かは清へ出征したそうです。
彼等の無事を祈り建てられたのが、従軍記念碑でした。
記念碑には出兵した人物の名前が刻まれているとのことですが、現在は確認が取れません。
正面には代表者の名前が記されているものの、ハッキリと読み取るのは不可能です。
第二次世界大戦が終結した際、記念碑は「軍国時代」を思わせるものとして廃棄される予定でした。
もし廃棄してしまうと、出征した人の思いは泡となって消えていきます。
そこで境内内に隠すように、記念碑は埋められることになりました。
現在のように表に出られるようになったのは、戦後30年以上の月日が流れてからのことです。
筆塚
綱敷天神社の御祭神として祀られている嵯峨天皇と菅原道真は、共に達筆な人物であると知られています。
菅原道真は「書の神様」として知られ、嵯峨天皇は「三筆」の一人として数えられています。
三筆とは、書道に優れた三人を尊敬して名付けられたものです。
嵯峨天皇の他に空海と橘逸勢(たちばなのはやなり)が名を連ねています。
二人の御祭神を偲んで建てられたのが筆塚で、1977年(昭和52年)の菅公御神忌1075年祭の年に建てられました。
戦災の狛犬
御本殿前にあるのが、戦災の狛犬です。
1915年(大正4年)、鋳物師・房本辰之助によって製作されました。
しかし30年後に太平洋戦争が勃発し、大阪も幾度となく空襲にあいます。
1944年(昭和19年)1月30日には綱敷天神社がある北区が空襲にあい、63人の方が犠牲になられました。
1945年(昭和20年)3月13日未明に起きた大阪大空襲では、北区の1/4が消失。
3月の大阪大空襲の様子は、遠く離れた奈良や京都からでも確認できたという話が残っております。
綱敷天神社も空襲の被害にあい、狛犬は爆風と熱で崩れてしまいました。
戦後になってからコンクリートで修復されたものの、見ているだけで痛々しく感じるほどです。
戦争がいかに酷いものだったのかは、綱敷天神社の狛犬が全て物語っているかのようでした。
萬載橋(まんざいばし)
喜多埜稲荷神社の前にある小さな石橋が、萬載橋です。
見た目は地味目で目立つ橋ではありませんが、大阪の歴史が凝縮された橋といっても過言ではありません。
建てられた年月日はハッキリしていませんが、江戸末期に作られた石橋ではないかと見られています。
最初から綱敷天神社にあったわけではなく、別の場所から移動した橋です。
しかし綱敷天神社に移る前には、どこで架けられたかはわかっておりません。
神社側の見解としては、御本社である神山町と北にある万歳町の境にあった橋と見ているようです。
満載橋の名前の由来についてですが、諸説はあります。
「萬歳という芸が披露された橋だから萬歳橋」となったという説も、出ているほどです。
萬歳とは2人1組で行われる芸事で、漫才のルーツになったとも言われております。
もし芸事が名前の由来ならば、大阪のお笑いの原点になった橋とも言えるでしょう。
喜多埜稲荷神社(きたのいなりじんじゃ)
いつから稲荷神社が創建されたかについては、戦災で記録がなくなっているので不明です。
ただ梅田界隈には稲荷にまつわる祠が多く、阪急電車の中にも稲荷が祀られているほど。
推測でしかありませんが、喜多一帯は稲荷信仰が強い場所だったのかもしれません。
なお現在の喜多埜稲荷神社の社殿は、昭和37年10月に建てられました。
御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのおおかみ)で、ご利益は商売繁盛・五穀豊穣です。
商売繁盛にご利益があることから、梅田で会社を営んでいる方の信仰を集めています。
綱敷天神社の御祭神「嵯峨天皇」と大阪の由縁
今でこそOSAKA CITYの中心地となっている梅田ですが、昔の梅田は目と鼻の先に海原が広がっていました。
当時は堤防が設けられておらず、大雨が降ったら水没確実です。
大阪の現状を何とかしようと立ち上がったのが、仁徳天皇でした。
周りが海に囲まれていることを上手く利用し、水路を作ったのです。
すると大雨が降っても大災害が起こることはなく、しかも流通を確立したことにより商売も発達しました。
整備が功を奏し、大阪は風光明媚な場所としても知られるようになります。
美しい大阪の風景を見ようと、多くの貴族達が足繁く通いました。
大阪に通った貴族の一人が、綱敷天神社の御祭神の一柱でもある嵯峨天皇だったのです。
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