大阪市天王寺区でひっそりと佇み歴史を現代に残す安居神社は、安居天満宮や安居天神とも呼ばれていて、大丸の創業者である下村彦右衛門正啓が信仰していたので大丸天神と呼ばれることもあります。
江戸時代の観光案内書である摂津名所図会では花見の名所としても紹介され親しまれてきました。
また、近年ドラマやゲームで「真田丸」として有名になった真田幸村が討たれた場所がこちらの安居神社でもあります。
こちらのページではその歴史ある安居神社について紹介いたします。
読み方
やすいじんじゃ
創建年
不詳
主祭神
菅原道真(すがわらのみちざね)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
例祭日
4月25日 ※月次祭 毎月1日、15日、25日
安居神社の歴史(由来)
創建年は不詳ですが非常に古い時代から少彦名神が祀られているとされています。
901年(昌泰4年)に菅原道真が太宰府に左遷される途中で、天王寺の港から出航の際に海が荒れていたためこの地に立ち寄って風が静まるのを待ったという言い伝えがあり、その後942年(天慶5年)から菅原道真が合祀されるようになりました。
1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の時には、真田幸村が兵力の差から力尽き、安居神社の境内にある木にもたれて休んでいたところを越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、討ち取られました。
1945年(昭和20年)太平洋戦争の災禍で全ての建物がなくなりましたが、大丸をはじめとする奉賛者の寄進により1951年(昭和26年)春に復興されました。
目次
安井神社の主祭神「少彦名神」「菅原道真」について
少彦名神(すくなひこなのかみ)
「日本書紀」や「古事記」などで、大国主の国造りに際し登場する神様です。
波の彼方の異世界である常世の国から蛾又はミソサザイという鳥の皮の着物を着て、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗ってきたとされています。
神産巣日神に命ぜられ義兄弟の関係となり国造りに参加しました。
ご利益(ご神徳)
- 医薬・まじない・智恵の神様。
- 他にも、酒造、穀物、石神などの神様でもあります。
菅原道真(すがわらのみちざね)
- 845年(承和12年)~903年(延喜3年)
平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。
秀才であったことから宇多天皇に重用されて右大臣にまで昇りつめましたが、政敵の左大臣・藤原時平に陥れられ、無実の罪で大宰府へ左遷され現地で亡くなりました。
しかし道真の死後に天変地異が多発したことから、道真が怨霊と化したといわれ、その怨霊を鎮めるため、天満宮が各地に創建され、信仰の対象となりました。
ご利益(ご神徳)
- 現在は学問の神として、太宰府天満宮、北野天満宮を始め全国各地に祀られています。
安居神社の境内図と見どころ
本殿
建立年
不明
再建年
1951年(昭和26年)
癇鎮めの井
癇鎮めの井(かんしずめのい)は、現在は枯れてしまっていますが、かつては天王寺七名水して名を馳せた霊水でした。
この水を飲めば癇癪が治まると言われていました。
菅原道真もこの水を飲んで癒されたとのことです。
現在は近くに行くことはできず、社務所の横の狭い通路から見下ろしたところにあります。
天王寺七名水とは
昔、大阪では飲料水不足で生活が脅かされたことがたびたびありましたが、この周辺一帯の上町台地の地下には生駒山からの伏流水が通っており、良質な井戸水に恵まれていました。
北から有栖、金龍、逢坂、亀井、増井、安居(安井)、玉出の七つの井戸からなる天王寺七名水は特に重宝されていました。
このうち「有栖の水」と「玉出の水」はおそらくこの辺りにあったのだろうという程度にしか場所がわからなくなっています。
また、現在ほとんどの井戸は枯れてしまっており、実際に今も水が出るのは四天王寺にある「亀井の水」のみとなっていますが、歴史を今に残すべくそれぞれの場所には碑や案内が立っています。
真田幸村戦死跡之碑
真田幸村を偲び、真田幸村戦死跡之碑と銅像が建っています。
真田幸村の生涯については後述します。
真田幸村公之像
建立(設置/奉納)年
2009年(平成21年)12月
製作者:播間公次
建立:中島宮司
この銅像に手を触れると徳を授かることができると言われています。
さなだ松
真田幸村は境内の松の下で戦死したといわれていますが、当時の松は枯死しました。
現在の松は社殿復興の際の1951年(昭和26年)4月24日に植樹されたものです。
玉姫稲荷神社(摂社)
上述の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られています。
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
稲荷神とも呼ばれています。
スサノオとオムオオヒメとの間に生まれた神様、またはイザナギとイザナミが飢えている時に生まれた神様と言われ、穀物の神様とされています。
稲荷神は五穀豊穣の神様でしたが、時代を経るにつれて商売・家内安全・交通安全・芸能の神様としても信仰されるようになりました。
玉姫稲荷神社に祀られています。
- ご利益:五穀豊穣・商売・家内安全・交通安全・芸能
金山彦神社(摂社)
金山彦神・金山姫神・淡嶋大神が祀られています。
金山彦神・金山姫神(かなやまひこのかみ・かなやまびめのかみ)
イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をして苦しみ嘔吐したときに、その嘔吐物が形を変えてできた神様です。金山彦神と金山姫神は兄妹ですが夫婦でもあります。
銅や鉄を溶かした状態が、嘔吐物に似ていることから鉱山の神様になりました。
- ご利益:鉱業・金属加工
淡嶋大神(あわしまのおおかみ)
住吉明神の妻神だった淡嶋大神が婦人病にかかって熊野の淡島に流され,女の守り神になったと言い伝えられています。
また、「古事記」・「伯耆国風土記」に上述の少彦名神が国造りを終えて粟島(あわしま)から常世の国へ渡って行ったという記述があることから、少彦名神が淡嶋大神であるという説もあります。
- ご利益:婦人病・縁結び・安産・子授け・裁縫など
安居神社の幸村祭
毎年5月の連休あたりに幸村祭が行われます。
神主による幸村公慰霊祭のあと、鉄砲隊や殺陣の演武が行われます。
出店などは無いようですが、毎年多くの人で賑わいます。
安居神社の授与品(御朱印・御朱印帳・お守りなど)
安居神社では、1種類の御朱印が授与されています。
お守りでは、真田幸村に因んだ勝守りが有名です。
詳しくは、当サイト【限定御朱印もある?】大阪・安居神社の「御朱印・御朱印帳・お守り」の種類・初穂料(値段)などでご紹介しています。
安居神社で実施されているスタンプラリー
天王寺七坂スタンプラリー
安居神社の北側の坂は天神坂と呼ばれており、安居天神を祀っていることが名前の由来で、天王寺区内に「天王寺七坂」と呼び親しまれている歴史ある坂のひとつでもあります。
天王寺七坂は「てんのうじ観光ボランティアガイド協議会」によって作成されたスタンプラリーで巡ることができます。
天王寺七坂とは
北から、
- 真言坂(しんごんざか)
- 源聖寺坂(げんしょうじざか)
- 口縄坂(くちなわざか)
- 愛染坂(あいぜんざか)
- 清水坂(きよみずざか)
- 天神坂(てんじんざか)
- 逢坂(おうさか)
の順に並び、現在は幹線道路である逢坂以外は石畳や石段の細い道になっています。
それぞれの坂は情緒があり写真を撮るのも楽しいですし、この辺りは歴史ある神社・お寺が多く、見どころが沢山あります。
是非、スタンプラリーを持って七坂を巡ってみてはいかがでしょうか。
安居神社の社務所でもスタンプラリー台紙の販売とスタンプの押印ができます。
また、天王寺観光ボランティア協議会では天王寺七坂を含む全11コースのガイドツアーを行っています。
希望する方は2週間以上前までに申し込んでください。
- 所要時間 1時間半~3時間(コースにより変わります)
- 料金 200円×人数(資料付) ※5名以下は1000円
- 申し込方法 案内日より2週間以上前に天王寺区民センターに電話またはFAX
お問い合わせ・台紙販売場所・値段・時間
お問い合わせ: 06-6771-9981(てんのうじ観光ボランティアガイド協議会)
スタンプラリー台紙販売場所:
- 生国魂神社
- 齢延寺
- 銀山寺
- 源聖寺
- 金台寺
- 太平寺
- 珊瑚寺
- 称名寺
- 清水寺
- 安居神社
- 一心寺
- 天王寺区民センター
スタンプラリー台紙(値段):1枚100円
捺印のできる時間:9:00~16:00(各寺社共通)
大坂夏の陣 激戦地をめぐれーっ!!スタンプラリー
また、上述のてんのうじ観光ボランティアガイド協議会では、大坂夏の陣の激戦地で知られる四天王寺・茶臼山界隈(大阪市天王寺区)を巡る「大坂夏の陣 激戦地をめぐれーっ!!スタンプラリー」も企画しています。
真田幸村ゆかりの地や豊臣と徳川が激突した戦場跡など、安居神社を含む6カ所を巡ります。
是非、天王寺七坂スタンプラリーと一緒にまわってみてください。
お問い合わせ・台紙販売場所・値段・時間
お問い合わせ: 06-6771-9981(てんのうじ観光ボランティアガイド協議会)
スタンプラリー台紙販売場所:
スタンプラリー台紙(値段):1枚100円
安居神社の場所と最寄り駅・最寄りバス停からのアクセス(行き方)
「最寄り駅から安居神社へのアクセス(行き方)」
「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」から
大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」5番出口から徒歩約6分
「天王寺駅」から
大阪メトロ御堂筋線「天王寺駅」6番出口から徒歩約9分
「恵美須町駅」から
大阪メトロ堺筋線、阪堺電車阪堺線「恵美須町駅」2番出口から徒歩約10分
その他、今宮戎駅、新今宮駅からでも徒歩12~13分です。
「最寄りバス停から安居神社へのアクセス(行き方)」
交通アクセス(バス):大阪シティバス62号「天王寺西門前」下車徒歩約4分
「安居神社の駐車場・駐輪場」
安居神社には駐車場がありません。参拝には最寄り駅から徒歩で行くか、近くのコインパーキングに停めてください。
安居神社の拝観時間・拝観料・お問い合わせ先など
拝観時間
7:00~16:00
拝観料
なし
お問い合わせ先など
- 所在地:大阪市天王寺区逢坂1-3-24
- 公式HP:https://osaka-info.jp/page/yasuijinja(大阪観光局公式サイト)
【豆知識】真田幸村の生涯
「真田幸村」は、幸村の名前で知られていますが、実名は「信繁」と言い、実際に自らを幸村と名乗ったという形跡はありません。
「幸村」の名が記されている一番古いものは、死後60年近く経った、1672年(寛文12年)刊行の軍記物『難波戦記』です。当時の作者が敢えて実名を避けて幸村として話に登場させ、そこから実名を知らなかった一般市民にも幸村の名で広まったと言われています。
時代が下るにつれて幸村の名が定着し、江戸時代には幕府や松代藩の資料にも「幸村」の名前が採用されてしまいました。
幸村の出生年ははっきりとはわかっていませんが亡くなった時の年齢が49歳であることから、1567年(永禄10年)または1570年(元亀元年)と言われています。
父は真田昌幸、母は正室の山手殿で真田家の次男として生まれ、通称を源二郎と称しました。
真田氏は信濃国小県郡の国衆で、祖父の幸隆(幸綱)の頃に武田氏に帰属しています。
1582年(天正10年)3月には織田徳川連合軍により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長の命に従い上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を公認されましたが、同年6月の本能寺の変で信長が亡くなると武田が残した領地を、上杉・後北条・徳川の三者で巡る争いが発生しました。
この武田旧領を巡る争いは最終的に”信濃・甲斐国=徳川”、”上野国=北条”という条件で決着しましたが、それは父・昌幸が武田より受け継ぎこの乱で勝ち取った領地も北条に渡すということで、真田家には受け入れがたく、後に主の徳川家康と対立していく原因となりました。
その後、真田家は存続をかけて豊臣秀吉の家臣となりました。
幸村は秀吉のもとに人質として差し出されましたが、秀吉の側近の娘を正室に迎えるなど、厚遇されていたようです。
1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原の戦いでは、父・昌幸と幸村は西軍に、兄の信之は東軍につきましたが、これは真田家を存続させるための策でした。
幸村は上田城に籠り徳川軍を迎撃し奮戦した結果、徳川軍が関ヶ原に向かうのを遅らせることができました。
しかし、その後西軍の敗北により幸村と父・昌幸は紀伊国九度山へ配流され、昌幸はそこで1611年(慶長16年)に老衰で亡くなりました。
1614年(慶長19年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化、豊臣氏は浪人を集める策を講じ、九度山の幸村の元にも使者を派遣しました。
幸村は上田にいる父・昌幸の昔の家臣たちに呼びかけて、九度山から決死の脱出をして大坂城へ向かいました。
大坂冬の陣が開戦すると、幸村は「真田丸」を築いて徳川方の迎撃と撤退を導き、幸村の実力が世に知れ渡りました。
そして、1615年6月3日(慶長20年5月7日)の大坂夏の陣の時のことです。
真田幸村は、一時は徳川家康を窮地に追い込みましたがその後兵力の差から力尽き、安居神社の境内にある木にもたれて休んでいたところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、討ち取られました。
享年49歳でした。
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