【歯神社(綱敷天神社)】御旅社(おたびしゃ)の御朱印や歴史・名前の由来・境内見どころをご紹介!

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通称「キタ」とも呼ばれる大阪一の規模を誇る最新トレンドショップが軒を連ねた繁華街の一画には、荘厳さただよぅ神社が佇んでいる。

この神社の名前を綱敷天神社というが、本社は別場所にあり、つまり飛び地に建っていることにはなるが、正式には「綱敷天神社の御旅社」と呼ばれる。

綱敷天神社は地元では通称「歯神社」と呼ばれ、古今変わらずキタの鎮守として深ぃ信仰が寄せられている。

以下では綱敷天神社の御旅社の御朱印や歴史・名前の由来についてご紹介してい‥‥‥申す。ダギャっ

綱敷天神社・御旅社の御朱印の種類・初穂料(値段)など

力強さを感じる筆使いです。御祭神として菅原道真が祀られているため、御朱印は一筆丁寧に書いていただきます。

御朱印の初穂料(値段)
  • 1枚につき300円
  • 書き置きは500円
御朱印の授与場所
  • 綱敷天神社 御旅社の社務所

綱敷天神社 御旅社(おたびしゃ)の御朱印の授与場所(混雑具合)など

綱敷天神社の摂末社の場所や御朱印については下記ページをご参照ください。


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綱敷天神社御旅社の歴史・由来

当社は創祀当初から「御旅社」ではなく、元来、「梅塚天満宮」と呼ばれていた。

つまり、「天満宮」ということで「菅公(菅原道真)」を奉斎した社だということ。実際、けっして広いとは言えない境内に天満宮の象徴たる梅の樹が植樹されている。

当社の由緒を申せば、菅公が901年(昌泰4年)、無実の罪で京の都から九州太宰府へと左遷されることに端を発する‥‥‥。

菅原道真は古今東西、能臣の鏡として名を轟かせるが、同じ臣下の讒言によって無実の罪をきせられ太宰府へ遣わされることになった。

都一の能臣が”西の果て”とも呼べる九州・太宰府への人事異動は、もはや単なる人事異動などではなく、VIP待遇で盛大な歓待で迎えられることなど無縁の境遇。

菅公は大坂で心を奪われるほどの「梅」と出会ぅ

京の都から九州への移動途上、大坂(大阪)へ菅原道真がやって来たときのこと。当時は2月か3月頃だったのか、見事な紅梅が咲いていたそうな。

菅公は牛車の小窓から思わず、その咲き誇る紅梅を覗き見してしまうほどに、スッカリかりかりカリカリ梅酸っぱっ!!‥‥てなほどに心を奪われた。

しかし、都仕えの朝官であれば紅梅を観るための立派な屋敷でも建てられたものだが、なにせ当時の菅公は罪人扱いされていたためお屋敷を建てるなどご法度。

しかし罪人とは言え、かつては国のために尽力した人物には違いない。国のために尽くした人を前にして何もしないのは浪速人情の名がすたるというもの。

そこで舟をつなぎとめる縄綱である艫綱(ともづな/船を陸につなぎとめる)を円座状に敷き、簡素な休憩所を造ることを許された。

菅公が艫綱の上に座り込んで紅梅を楽しんだとされる場所こそが、この綱敷天神社なのだった。

この一件以後、菅公を偲んだ人々によって「綱敷」と呼ばれるようになり、やがて「綱敷」の名前の由来となった。

道真が旅立った後に建てられた祠「梅塚天満宮」

さて、紅梅を堪能した後、菅公は臣下たちに九州へは1人で行くので都へ残留するように申し伝える。

臣下たちは驚いたが、これは臣下たちにも地元(関西)に家族がいて、家族と離れ離れになってまで自らに付き添ぃ、はるばる九州まで下向する必要はないと考えたからである。

君命を重く受け止めた臣下達は、いつしか菅公が再び都へ戻ってくることを信じ、この梅の木が生えるこの場所に祠(ほこら)を建てた。

こぅして星霜経ると、この祠は「梅塚天満宮」と呼ばるようになった。

しかしご存知の方も多いと思うが、菅公は大坂の地を踏みしめることはなく、その一生涯に幕を降ろすことになる。

菅原道真の恐ろしき呪い?

菅公は九州・太宰府にてこの世を去るのだが、不思議なことにその後、干ばつや台風、洪水など異常気象が続いた。

京の都ではこれを異常気象などではなく、「道真の呪い」ではないかと大騒ぎした。

この状況を重く受け止めた朝廷は、菅公を神として祀りたてることで菅公の呪いを鎮めようと考え、日本各地に菅公を神として奉斎した「天神社」の建立を打診したのだった。

梅塚天満宮はまさにその一環で建立された天神社の1社であるが、菅公が褒め称えた梅が自生するなど、菅公とは特別な縁ある場所として重く見られ、特別な計らいにより社殿が建てられた。

以後は星霜経ながら綱敷天神社と合祀される運びとなり、今日に至っては「綱敷天神社 御旅社」としてキタ界隈を道ゆく人々を見護るかのように静かに佇んでいる。

綱敷天神社御旅社の境内の見どころ

玉姫稲荷社

  • 創建年:不明
  • 再建年:1982年(昭和57年)
  • ご利益:芸能上達、良縁招来、商売繁昌、無病息災、家内安全

御旅社の境内は人が行き交うのも大変なほど狭いのですが、それでも他の神社と引けを取らないような魅力がいくつかあります。

そのうちの1つが、この「玉姫稲荷社」です。キタ界隈では、特に「縁結び」に強力なご利益があると言われ、恋に悩む人々が数多く参拝に訪れます。

綱敷天神社は先の太平洋戦争における大阪大空襲により灰燼に帰し、当社の草創を書き記した文献いっさいが焼失しております。

しかし崇敬者1人1人の脳裏には信仰という名の悠久の歴史が刻み込まれており、古来、当社は現今に至るまで茶屋町の産土神としてキタ界隈で働く女性の守り神として篤い信仰を寄せられております。ウフ

その信仰の度合いを示すかのように1979年(昭和54年)には玉姫稲荷社に「玉姫講」という信者のグループより「由緒版」が奉納されています。

以上、まとめると玉姫稲荷社がいつ頃登場したかは判然としていません。分かっているのは古来、茶屋町付近で働く女性を守護する女神様として信仰されてきた事実です。

ただ、ひょっとすると梅田界隈には稲荷社が数多く存在することから、‥もしかすると稲荷信仰が色濃く根付いた土地だったのかもしれません。

枝ぶり良い梅

綱敷天神社の梅の開花時期
  • 例年:2月初旬頃

かつての太融寺周辺を中心とした界隈には梅塚があったとされており、菅公が太宰府までの途上、大阪・太融寺に参拝した折、ちょうど当神社の鎮座地あたりに生えていた枝ぶりの良い梅に目が行き、思わず、乗っていた船の艫綱(船と陸とを結ぶ綱)をたぐりよせたそうです。

菅公は、そのたぐり寄せた綱を円座状に敷いて座布団とし、しばし腰を下ろして梅をご観賞されたという故事が残されています。

後にこの故事が由来となって「綱敷天神社」の社名の成立につながったとのことです。

この綱敷天神社御旅社は境内こそ広いとは言い難いものがありますが、社務所前には枝ぶりの良い梅が崇敬者よりの奉納という形で植栽されており、毎年2月初旬の梅の開花シーズンを迎えると無数に散りばめられたリボンのような真っ赤な可愛らしぅ〜ぃ花を咲かせ、境内は、ほのかに梅の香りで包み込まれます。


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【補足】綱敷天神社 御本社までのアクセス

綱敷天神社からのアクセスには、色んな方法があります。ただ全ての方法を紹介するとキリがないので、ルートがわかりやすいものだけをチョイスしてみました。

ホワイティうめだから綱敷天神 御本社へ行くルート

1番わかりやすい道順は、ホワイティうめだを通って行くルートでしょう。ホワイティうめだ内にあるm14番出口を上がって扇町通りへと出ます。

扇町通りを出たら東方向へと進みましょう。5つ目の角を左に曲がりまっすぐ進めば、綱敷天神社です。

ホワイティうめだm14番出口があるのは、泉の広場です。泉の広場まで行く際には、地下鉄谷町線東梅田から行くのが便利でしょう。御堂筋や四ツ橋から向かう際にも、泉の広場を経由して行った方が簡単です。

ホワイティ梅田から綱敷天神社までは、歩いて約15分ほどで到着します。

地下鉄谷町線中崎町駅から綱敷天神 御本社

他にも地下鉄中崎町から行くルートがあります。中崎町から南方向へ向かえば、綱敷天神社です。しかし道がかなり入り組んでいるので、わかりにくいかもしれません。

ポイントは南方向に、とにかく進むことです。途中で南以外の方角に進まない限りは、5分~10分前後で到着するでしょう。

他にも、阪急やJRからでも向かうことはできます。しかし地図アプリがなければ、「リアル不思議ダンジョン梅田」の餌食になるのは確実です。地図アプリなしで綱敷天神社へ向かうには、ホワイティうめだ経由が無難と言えるでしょう。

なお周辺は、18歳未満立入禁止のお店がいっぱい建ち並んでおります。人通りも少なく、治安も良いとは言えません。遅い時間帯に参拝される場合は、必ず2人以上で向かうようにして下さい。

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