住吉大社「反橋(太鼓橋)」

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住吉大社「反橋(太鼓橋)」

読み方

  • そりはし
造立(再建)年

  • 慶長年間(16世紀末~17世紀最初)
大きさ

  • 長さ約20m、幅約5.5m、中央部高さ約3.6m ※計測方法により多少異なります
  • 最大傾斜約48度
素材

  • 木造桁橋、石柱脚 ※貫部分は木材

反橋(太鼓橋)とは?

反橋とは、中央が高くなるように曲線を描いたいわゆるアーチ橋です。

「太鼓橋」の名前は、橋を真横から見た時に、太鼓の銅のように半円状になっていることにちなんでいます。

反橋の中でも、日本庭園や寺社の川(水路)や池に架かっているものを、特に太鼓橋と呼ぶことが多いようです。

一般的に、神社の本殿手前にある川や池は、人間の世界と神々が住まう領域との境界線を意味し、そこに架かる橋を渡ることは、神聖な場所に足を踏み入れることを意味します。

太鼓橋に、渡るのに苦労するほど急な勾配が設けられているのは、「ここから先は安易に立ち入れる場所ではない」ということの示唆でもあると言われています。

また、水がある場所を通過することで、「お祓い」「禊(みそぎ)」の意味もあると言われています。




住吉大社「反橋(太鼓橋)」の歴史(由来)

住吉大社の反橋(太鼓橋)は、「渡るだけでお祓いになる」という信仰もあり、古くから住吉大社の象徴として親しまれてきました。

同じ場所には以前から橋がかかってはいたものの、現在の反橋の石造の橋脚は、慶長年間(16世紀末頃)に豊臣秀吉の妻、淀君が息子の秀頼の成長祈願のために、元の端を再建・奉納したものと言われています。
※奉納したのは秀頼という説もあります。

長さ約20m、幅約5.5m、高さ最大約3.6mという巨大な橋は、豊臣家の権力の象徴でもあったのでしょうか。

現存する反橋(太鼓橋)では、最大とも言われています。

この反橋が架けられた当初は、大阪湾の海岸線は住吉大社のすぐ西側まで来ており、反橋は、本宮(本殿)と対岸の入り江を結ぶための橋だったと言われています。

現在は、人工池の上に橋が架かっていますが、これは、かつてこの場所に入り江があった名残とされています。

なお、桁部分は何度も架け替えられており、最近では2011年(平成23年)の鎮座1800年に向けた事業の一環として、2009年(平成21年)に架け替えが行われました。

石柱脚を繋いでいる貫も後年に付け足されたものですが、石柱脚自体は、慶長年間の造営時のものと考えられています。

画像出典:『浪花百景』住吉反橋、里の家芳瀧画・大阪市立中央図書館蔵

1800年代に描かれたこちらの絵の反橋は、勾配がかなり誇張されています。貫は描かれていません。

画像出典:『大日本名所写真』大阪住吉反橋、鈴木年基画・石川県立美術館蔵

明治時代のこちらの絵の反橋は、石橋脚の間に貫が見られます。

時代に従い安全面を考慮

以前の反橋は、「足掛け穴」が空いているだけで階段状になっておらず、渡るのも一苦労な危ない橋でした。

こちらは、「足掛け穴」があるだけだったかつての反橋の写真です(大正時代から昭和初期製作の絵葉書)。

ここを草履で渡るのは、さぞかし大変で、怖かったことでしょう。

ただ、そもそもこの反橋は、最初は「神のみが渡る橋」だったとも言われており、人が渡る上での安全性は考慮されなかったとも考えられます。

明治時代以降は一般の参拝者も自由に渡れるようになり、現在は傾斜部分に階段のようなものが付けられ、より簡単に渡ることができます。

斜面は階段状になっています。

さらに、お年寄りや小さなお子さんでもより安心して渡れるよう、参拝する際に下りる方向となる本殿側には、近年、段の途中から仮の歩行路が設置されました。

また、反橋の左右には平橋もあり、さらにその外側へ回れば橋を渡らずに本殿方面へ行くこともできます。

川端康成と住吉大社「反橋」

ノーベル文学賞作家の川端康成は、1948年(昭和23年)の『反橋』の中で、「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです、私は母に抱かれておりました」と書いています。

反橋を渡り切って右側に進むと、池のほとりにこの一節が刻まれた川端康成文学碑があります。

川端康成の生家は大阪天満宮の向かいにあり、川端はそこで3歳まで過ごしました。




2009年12月の「反橋渡り初め式」

2009年(平成21年)、54年ぶりに新調された反橋では、12月6日に、いわゆる「渡り初め式」が行われました。

新しい橋を初めて渡る日で、御神輿や神職の方、巫女さんなどの関係者ももちろん通りますが、特別に招待される一般の方もいました。

それは、「3世代の夫婦」揃って橋を渡れる方です。

つまり、親夫婦・子夫婦・孫夫婦の合計6名が揃っているご家族が、「橋が末永く架かるように」という願いを込めて招待され、一緒に橋を渡りました。

このように一家3世代が出席して橋を渡るという儀式は、縁起が良いということで、全国的に行われています。

例えば広島県の世界遺産、宮島・厳島神社の反橋の「渡始式」でも、3世代の夫婦が揃って橋を渡っています。

住吉大社「反橋(太鼓橋)」の特徴・見どころ

桁(けた)の部分は木製で、美しく弧を描いています。

橋は時に、地上(人の国)と天上(神の国)を繋ぐに例えられていたため、この反橋は虹を模した形になっているとも言われています。

桁を支える橋脚の柱は石造で、その柱に穴をあけ、木の貫を縦方向・横方向から貫通させたうえで、楔(くさび)で固定しています。

高欄は朱色、貫の部分は胡粉(ごふん:貝殻などから作られる白い絵具)塗りで白色に仕上げられています。

反橋は「住吉反橋」と呼ばれ、住吉大社だけでなくこの地域の象徴的な存在となっている橋です。

参拝する際に渡ったら、その後はこの美しいアーチと紅白のコントラストを見に、左右どちらかの平橋の方にも行ってみてください。

住吉大社の反橋は「浪速の名橋50選」「関西夜景百選」に選定されています。

夜は21時までライトアップされますので、機会があればぜひ、ご覧ください!

「擬宝珠」の刻銘から反橋(太鼓橋)の歴史を知る!

端の高欄に付いている宝珠形の飾りは、擬宝珠(ぎぼし)と呼ばれます。

玉ねぎ・・?と思ってしまいますが、玉ねぎではなく、ねぎの「花」に見立てて、「葱台(そうだい)」とも呼ばれています。

これが擬宝珠です。

さて、よく見ると、この擬宝珠には、何やら文字が刻まれています。

一般的に、橋は架け替えられても、擬宝珠は架け替え前のものが使用される場合も多く、そこに記された文字を読むことで、橋の歴史を知ることができます。

住吉大社の反橋の擬宝珠も、江戸時代から同じものが使わていますし、他には、例えば、伊勢神宮内宮の宇治橋の擬宝珠も、長年同じものが使われています。

さて、住吉大社の反橋の擬宝珠には、どのような内容が刻まれているのでしょうか?




反橋の擬宝珠の刻銘①年号など

反橋の擬宝珠は、縦方向(人が渡る方向)に6か所設置され、左右合わせると12個あります。

そのほとんどには、以下のような文字が見えます。

享和元年 辛酉 六月十九日
天保二年 辛卯年 九月 再興
昭和三十年 乙未 六月 再興

西暦に直すと、享和元年は1801年、天保2年は1831年、昭和30年は1955年です。

ここに記載されている年に、反橋は架け替えが行われ、擬宝珠が鋳造されたのは享和元年とわかります。

1955年の架け替えは、2009年の前の架け替えになります。

なお、年号など擬宝珠の刻銘は、古い順に、右から左へ刻まれています。

反橋の擬宝珠の刻銘②鋳造者など

 

年号の他には、橋の架け替えに携わった人の名前なども刻まれています。

刻まれている文字は少しずつ異なりますが、以下のような内容が多く見られます。

摂州住吉 反橋 擬寶珠 ※寶=宝
奉寄附 舩大工惣仲間 ※舩=船
御鑄物師 大坂大谷相模大掾 藤原正次 ※鑄=鋳
周旋人 大坂造舩業舩大工

奉寄附(寄付した人)や、周旋人(しゅうせんにん:とりまとめ役)として「船大工」と刻まれています。

住吉大神は航海安全の神として信仰されていますので、船大工をはじめ海運に関わる大阪の人々は、日ごろから住吉大社への信仰も厚かったことでしょう。

「鋳物師」は、「いもじ」または「いものし」と読みます。

その名の通り、鋳型(いがた)を用いた鋳造を行う職人のことを意味しています。

どうやら、享和元年の擬宝珠の鋳造は、この「大谷相模大掾・藤原正次」が行ったようです。

大掾(だいじょう)とは、職人が名乗った名誉号で、大掾・掾・小掾の三階級のうち、最も高い称号です。

なお、江戸時代の享保~天保年間の約100年に渡り、大阪の寺院の鐘を多く鋳造した大谷相模掾藤原正次という人物(職人が代々同名を継いだと考えられます)がいたことがわかっています。

反橋の擬宝珠は、享和元年の橋の架け替えに伴い、何らかの理由で全て取り換えられることになり、その新たな擬宝珠の鋳造を、当時の大谷相模掾藤原正次請け負ったということのようです。

なお、現在大阪市に大谷相模掾鋳造所という会社があり、この大谷相模掾藤原正次とつながりを持っているものと思われます。




1つだけ異なる刻銘の擬宝珠がある・・!?

以上の内容は、反橋の12個の擬宝珠のうち、11個にほぼ共通して刻まれています。

唯一、異なるのが、本殿側、本殿を背にして左側の一番手前(端)の擬宝珠で、江戸時代の年号などの他に、「明治〇〇年 乙年 七月」とあります。

元号の部分がやや不鮮明で、元号の終わりが「六」にも「八」にも見えるのですが、「乙年」が正しいとすると、乙が付く年は西暦の下一桁が「5」の年ですので、「明治〇〇年 乙年」は、明治18年(1885年)、明治28年(1895年)、明治38年(1905年)のいずれかと思われます。

江戸時代の最後の架け替えが天保2年(1831年)で、その前が30年前の享和元年(1801年)だったことを考えると、本当は1860年~1870年頃に架け替えたかったものの、幕末から明治へと時代が移り変わる、その荒波の中で叶わず、延びに延びて明治18年(1885年)、あるいは明治28年(1895年)になったのかもしれません。

また、明治38年は第45回の遷宮の期間中でしたので、遷宮と同時期に橋が架け替えられたという可能性もあるかもしれません。

なお、明治と刻まれた擬宝珠が本当に「1つだけ」かどうかは、確認しかねる事情があります。

擬宝珠の刻銘は、古い順に、右から左へ刻まれているとご説明しました。

すると、もっとも新しい部分がどうしても橋の外側(堀の方)にあり、橋の上の方の擬宝珠は確認できないため、もしかすると、明治と書かれている擬宝珠が他にもあるのかもしれません。

反橋の擬宝珠は全部で12個。「明治」が確認できたのはそのうち1個。

いずれにせよ、江戸時代2回と、明治1回または昭和1回の年号を銘したところで擬宝珠がいっぱいになり、平成以降の橋の架け替えの年号を刻むスペースは、もう残っていないようです。

住吉大社「反橋(太鼓橋)」の場所

画像引用元:住吉大社

阪堺電車「住吉鳥居前」駅から住吉神社境内に入り、鳥居をくぐると、正面に反橋があります。

足が不自由な方、車いすをご利用の方は、池の外側をお通りください。

※大きな境内図はコチラからダウンロードできます※

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