創立150周年!住吉公園が歩んできた現在までの歴史

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創立150周年!住吉公園が歩んできた現在までの歴史

実質的に公園として使われていた場所ならば、江戸時代に既に存在していました。

しかし近代法律で認められた公園であれば、府立住吉公園が初です。

2023年に、150周年を向かる住吉公園が歩んできた歴史を振り返ります。

住吉公園ができる前

住吉大社は誰がどういう形で作り上げたのかは、正直な所ハッキリしていません。

なぜなら住吉大社の設立に関しては、諸説があるからです。

「住吉大社史」では「底筒之男神(そこつつのおのかみ)は海の中に入り、中筒之男神(なかつつのおのかみ)と表筒之男神(うわつつの)を生み出しました」と書かれています。

底筒男神・中筒之男神・表筒之男神の3人の神様は、「住吉三神(すみよしさんじん)」と呼ばれています。

また日本書紀には「イサナギの神が自分の体を洗っていた時に、底筒男神が誕生した」とも書かれていました。

ただ住吉大社の公式HPでは、「211年(神宮皇后摂政11年)に神功皇が住吉の地に住吉大神を鎮座」との記述があります。

神功皇后が新羅(現在の韓国)成功したことを受けて、住吉大社が建てられたというものです。

住吉大社の西側には美しい松の原と海が広がり、海には多くの船が行き交う港として、大阪商人達の活動拠点となっていました。

平安貴族が足繁く通っていた住吉大社

出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ

後に港としての機能は失われてしまったものの、平安貴族を中心に住吉へ訪れる人が途絶えることはありませんでした。

当時は「神社を参拝すれば極楽浄土へいける」との信仰があり、住吉参拝はブームになっていたそうです。

住吉大社へ訪れた理由は、極楽浄土への切符をゲットするためだけではありません。

当時の住吉大社の眼前には壮大な松原があり、松原を抜けると青い海が広がり、住吉が魅せる絶景は、歴史に名を残す偉人達の心をも掴みました。

万葉集には「白浜の千重に来寄する住吉の 岸の黄土ににほひて行かな」と、歌が残されています。

「衣を住吉の岸と同じ色に染めたい」と歌で詠んでおり、住吉の土地を大絶賛しているのがわかります。

また学校で誰しもが習う「源氏物語」にも住吉大社は度々登場し、明石の君(光源氏の娘である明石の中宮の実の母親)は、年に二度住吉大社に詣でたとの記述もあります。

鎌倉時代の住吉大社

大阪市立図書館デジタル・アーカイブ

鎌倉時代に入ると、住吉大社前の松原では競馬が開催されるようになります。競馬は競馬でも、今のように勝ち馬を想像するものとは違います。

どちらかというと馬術に近いスタイルで、馬を操る技術を競っていたようでした。

時代が時代ならばオリンピックに出ても不思議ではない馬術自慢が競っていた場所こそが、今の住吉公園です。

住吉公園誕生!

大阪府が誕生した明治時代に入ってすぐに誕生したのが、住吉公園です。

しかし当時の住吉公園は現在の住吉公園のように、施設がたくさんある場所だったという訳ではありませんでした。

1873年(明治6年)の住吉公園

大阪市立図書館デジタル・アーカイブ

明治政府より〈社寺其地名区勝跡ヲ公園ト定ムルノ件〉という、太政官布告が出されました。

意味は「古くからある名勝や旧跡を公園として定めて、庶民達が楽しめる場所を作りましょう」というものです。

大阪府は「公園」にできる場所を調査し、住吉大社に広がる松原が公園として最適な場所だという結果を導き出しました。

こうしてできたのが、住吉公園です。

当時は住吉大社境内も「公園」として指定されたため、当時の広さは19.73haでした。

現在の住吉公園の広さが8haなので、およそ2.3倍の広さがあったということになります。

後に神社との境界線をハッキリさせるため、1875年(明治8年)に12.74haまで縮小されました。

1885年(明治18年)の住吉公園

明治18年に、難波から大和川を結ぶ阪堺鉄道(後の南海電鉄)が開通しました。

日本初の私鉄第一号ということもあり、開通した当時はお祭り騒ぎ状態です。

路線間に住吉駅が設置(後に廃止)され、公園には大勢の人が押し寄せました。

なお当時の発着時間は、難波–住吉駅間なら18分~19分ほどだったそうです。

ちなみに2019年(令和元年)時点において、難波から住吉までは10分前後で到着します。

阪堺電鉄が開通したことがきっかけとなり、公園内に民家や料理店、茶屋などが建ち並びました。

公園内に勝手に店を作るのはどうかというツッコミはあるでしょうが、当時は公園に関する法律は作られておらず、フリーダムに振る舞っていたのです。

ただあまりにもフリーダム過ぎたために、治安は悪化の一途を辿ります。

また住吉の自慢だった松原景観は失われてしまい、絶景ポイントだったのは過去の話となりました。

明治40年に園内巡査派出所が設置されたものの、焼け石に水の状態だったのです。

住吉公園完全リニューアル!

国会国立図書館デジタルコレクション

大正時代に入ると、住吉公園の存続が危ぶまれました。

「大人も子供も楽しめる場所」として作られたはずの住吉公園は、イケナイ大人だけが楽しむ場所に変貌してしまったのです。

そこで本来の公園を取り戻すべく、大リニューアルを決行したのです。

1917年(大正8年)

荒んでしまった住吉公園をなんとか復活させるために、住吉公園改造計画が打ち出されました。

当時の改良費は4万3,566円、現在の価値に換算すると2億1,784万5,000円~8億7,132万円前後です。

改造計画をまとめると、以下のようになります。

  • ・池を埋め立てて運動場を広くする。
  • ・残った池は風流さと上品な面持ちがある池に変更する
  • ・松の木が駄目になっている地区は、新しい花壇や他の樹木を植えて緑あふれる場所にする。

先ず手掛けたのは風紀改善で、料理店や茶屋を公園から排除しました。

正規の商売をしていた店も存在していたのかもしれませんが、大きい声で言えないような商売を営んでいた店があったのは事実です。

公園から排除された商売人達は公園南に場所を移し、逞しく商売を続けていました。

次に手掛けたのは、公園内の整備です。

リニューアル前は公園西側に池がありましたが、全て埋め立てられ運動場になりました。公園中央にあるただの池は改築され、美しい景観を持つ心字池として生まれ変わりました。

1924年(大正13年)

1924年(大正13年)に、国道16号線(現在の26号線)が住吉公園を貫通する事件が発生します。

明治以降になると大阪の街は驚くスピードで発展を遂げたため、道路整備はいの一番に手がけなければならない事業でした。

しかし致し方ない事情があったとは言え、「国道の貫通」は住吉公園から公園機能損失という事態を招く結果となります。

そこで提案されたのが、第2の住吉公園となる住之江公園の開設でした。

1925年(大正14年)に府議会で住之江公園開設の報告が行われ、1930年(昭和5年)に工事が始まります。

当時の工費は25万円、現在の価値で換算すると12億5,000万円前後です。

なお住之江公園は、住吉公園から西へ1km離れた場所にあります。

大阪メトロ住之江公園駅降りてすぐに、住吉公園へ向かうバス停もあります。


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第二次世界大戦下の住吉公園

1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発し、大阪も幾度となく空襲に逢いました。

大阪中心地と比べると住吉が受けた被害は少なかったものの、戦争と無関係だった訳ではありません。

当時住吉公園内に悠然と建っていた、西村捨三(大阪築港に貢献し大阪府知事を務めた人物)の銅像は、金属類回収令で失われました。

更に住吉公園では、B29航空機を地上から撃ち落とすための高射砲が置かれることになりました。

戦争開戦と同じ年に、天王寺にある市立美術館に、中部高射砲集団司令部が置かれました。

関西一体地域を空襲から守るためです。

そして1945年(昭和20年)4月には第三師団に改変され、住吉公園には第三師団の1つである、高射砲第121連隊本部が設置されたのです。

現在、住吉公園には高射砲の影も形もありませんが、西淡路には高射砲台が当時の姿のままで残っています。

終戦直後の住吉公園

1945年(昭和20年)に終戦を迎え、人々は配給された生活物資を頼りに戦争から立ち上がろうとしていました。

しかし配給されたものだけで生活するのは、実質不可能です。

そこで全国的に闇市が開かれ、通常よりも数倍~数十倍の価格で売られていました。

住吉公園から粉浜史上周辺でも闇市が開かれましたが、大阪府は闇市の取り締まり強化に乗り出し、閉鎖になったのです。

新たなリニューアルを遂げる住吉公園

終戦の動乱期を乗り越えると、住吉公園周辺は急速な発展を遂げます。

そして1990年(平成2年)には「国際花と緑の博覧会」が開催され、住吉公園120周年という記念すべき日を迎えたことをきかっけに、公園内の整備が進められました。

1974年(昭和49年)の住吉公園

1950年(昭和25年)、大阪にジェーン台風が直撃し、各地で甚大な被害が出るほどの惨事となりました。

住吉は元々地盤が高いおかげで浸水被害は何とか免れたものの、強い風により学校や古い家屋などが倒壊しました。

住吉公園前にある高燈籠も例外ではありません。老朽化が進んでいた高燈籠は台風に耐えきれず、土台を残したまま姿を消すことになりました。

そして時は流れて1974年(昭和49年)、元々高燈籠があった場所から東へ200m離れた場所に、高燈籠が復元再建されました。

当時と全く同じ木造ではなく鉄筋コンクリート造りではあるものの、姿形は当時のままです。

1991年(平成3年)~1993年(平成5年)の住吉公園

住吉公園が誕生から120年経ったのを記念して、「花の回廊」「水の回廊」をテーマに再整備されることになりました。

花の回廊では身近に自然を感じてもらうために、園内を花で飾り付けて季節感を出しました。

春は桜・夏は紫陽花の姿も見られ、また亀やアオサギ、野良猫がくつろいでいる姿も見ることができます。

住吉公園の噴水と花

水の回廊は、かつて住吉の近くに海原が広がり風光明媚な場所だったことを表します。公園内には壁泉や噴水があり、訪れる人の目を楽しませてくれることでしょう。

さらには、1933年(昭和8年)に建てられたラジオ塔も、リニューアルを機に建て替えられました。

そして現在の住吉公園へ

一時期は公園の存続そのものが危ぶまれ、グレーゾーンな商売をしている姿も見られた住吉公園。

戦争という悲劇を乗り越えて改修を重ね、現在は家族で楽しめる公園へとなりました。

現在は住吉大社と比べると少ないものの、外国人観光客の姿も見ます。

更には、アプリゲーム「ポケモンGO」を住吉公園で遊ぶ人の姿も見ます。

住吉公園はポケモンをゲットしやすい場所として知られており、腕に自信のあるポケモントレーナーが住吉公園に集結しています。

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